『存在と時間』の存在論は,「存在者の存在」を立て,「存在」は隠蔽されているとして,「存在そのものへ」を説くものである。
『存在と時間』の存在論は,プラトン,アリストテレスの存在論──イデア論──である。
「存在」があることは,ことばによって約束されている。(イデア論=言語写像論)
「存在そのものへ」は,「ことばを導きにして存在そのものへ」である。
「ことばを導きにして存在そのものへ」を,「ロゴス λόγος」と謂う。
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細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, pp.88-90
λόγος は、あるものを、すなわち、それについて話されているものを、話しつつある者自身に (中動態)、もしくは話し合っている者たちにむかって、見えるようにする‥‥‥のである。
話が見えるようにするのは、‥‥‥話題になっているもの自体の方からである。
話が本当のものであるかぎり,話‥‥‥において話されることがらは、話題になっているもののなかから汲みとられているはずで、したがって、話し合う伝達は、その話の内容において、それが話している当のものをあからさまにし、こうして相手にも近づきうるものにするのである。
‥‥‥
さらにまた、λόγος が「見えるようにすること」であるがゆえに、それゆえにλόγος は真もしくは偽でありうるのである。‥‥‥
λόγος が「真であること」‥‥‥とは、話題になっている存在者を‥‥‥その隠れから取りだし、それを隠れもないもの‥‥‥として見えるようにするということ、要するに、発見する (entdecken) ということである。
同様に、「偽であること」‥‥‥とは、蔽いかくす (verdecken) という意味であざむくということ、なにかをあるものの前に(見えるようにするという仕方で) 置いて、それをそれでない別のものだと言いたてるということなのである。
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同, pp.92-95
「現象」(Phänomen) と「ロゴス」とについての解釈のなかで取りだしたことがらを具体的に思い浮かべてみると、このふたつの名称によって表示されていることがらの内的な連関が、ただちに眼に映ってくる。‥‥‥
現象学とは‥‥‥おのれを示すものを、それがそれ自身の方から現われてくるとおりに、それ自身の方から見えるようにすること、という意味である。
これが、現象学とみずから称する研究の形式的意味なのである。
ところが、そのようにして表現されるものは、上に表明しておいた「事態そのものへ!」という格率にほかならない。
‥‥‥
現象学が「見えるようにし」ようとしているのは、何であるのか。
格別な意味で「現象」と呼ばれなくてはならないものは、何であるのか。
それの本質上、必然的に、ことさらな挙示の主題となるべきものは、何であるのか。
それは明らかに、さしあたりたいていはむしろおのれを示さないもの、さしあたりたいていおのれを示しているものに対して隠れているもの、しかも同時に、さしあたりたいていおのれを示しているものにそなわっていて、それの意味と根拠をなしているようなものである。
ところで、格別な意味で隠れたままでいたり、あるいはまた隠蔽状態のなかへ転落したり、あるいはただ「歪められた姿で」おのれを示すにすぎないものは、あれこれの存在者ではなくて、これまでの考察が示したように、存在者の存在なのである。
それは、忘れさられ、それとそれの意味をたずねる問いが起こらずにいるほど、はなはだしく隠蔽されていることがある。
したがって、格別な意味で、それの固有の実質的内容から言って、現象となることを要求しているものを、現象学はその対象として主題的につかみとったのである。
現象学とは、存在論 (Ontologie) の主題となるべきものへの近づき方であり、そしてそれを証示的に規定する様式である。
存在論は、ただ現象学としてのみ可能である。
現象学的な現象概念がめざしている「おのれを示すもの」とは、存在者の存在であり、その存在の意味、それの変様態と派生態である。
そしてそれが「おのれを示す」ということは、決してありふれたことではなく、まして《現象》というようなことではない。
‥‥‥
現象学の現象の「背後には」、本質上、なんら別のものはひかえていない。
けれども、そこで現象となるべきものが、隠れているということはある。
そして、これらの現象がさしあたりたいていあらわに与えられていないからこそ、現象学というものが必要になるのである。
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同, pp.98,99
現象学的記述の方法的意味は、解意するということ (Auslegung) である。
現存在の現象学の λόγος は、ἑρμηνεύειν という性格をそなえている。
すなわち、このはたらきをつうじて、現存在自身にそなわる存在了解に、存在の本来的な意味と、現存在自身の存在の根本的諸構造とが打ち明けられるのである。
ἑρμηνεύειν とはがんらい解意の仕事を指す言葉であるが、現存在の現象学は、この根源的な語義における解釈学 (Hermeneutik) なのである。
ところが、存在の意味と現存在の根本構造とを打開することによって、一般に現存在的でない存在者についてのあらゆる自余の存在論的探究の地平も取りだされるのであるから、この解釈学は同時に、あらゆる存在論的考究の可能条件を開発するという意味での「解釈学」にもなる。
‥‥‥
存在と存在構造とは、いかなる存在者をも超え、存在者のあらゆる存在的規定性をも超えたところに位する。
存在は絶対的超越 (das transcendens schlechthin) である。
現存在の存在の超越は、そのなかにもっとも根底的な個体化の可能性と必然性とが伏在しているかぎり、殊別的な超越である。
transcendens (超越) としての存在を開示することは、すべて、超越的認識である。
現象学的真理 (存在の開示態) は、veritas transcendentalis (超越的真理) である。
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イデア論を汲む哲学は,「超越的真理」信仰の宗教に進む。
──呪文は, 「λόγος」。
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