Up 現象学 作成: 2017-09-24
更新: 2017-09-24


    『存在と時間』の存在論は,イデア論である。

    イデア論では,物事はイデアのその時々の仮象ということになる。
    イデアが実在であり,物事は像である。
    ここで,「物事・イデア(実在)・像」を「存在者(Seiende)・存在(Sein)・現象(Phänomen)」に言い換えると,『存在と時間』の存在論になる。

    イデア論の趣意は,「物事は,実在を隠蔽する」である。
    そしてこの定立のこころは,<実在を捉える>の課題化である。

    「現象学 Phänomenologie」は,「<実在を捉える>を課題にする学」につけた名前である。
    よって,『存在と時間』の存在論は,現象学である。
    あるいは,『存在と時間』の存在論は,現象学を方法とする。


    「実在 = 隠蔽されている実在」であるから,実在を捉える作業は,<実在隠蔽のメカニズム>の押さえから開始されることになる。
    何が実在を隠蔽しているか?
    ひとの感覚や臆見や迷信とかである。
    そこで,<実在隠蔽のメカニズム>を押さえるという主題は,感覚や臆見や迷信で物事を捉えてしまう<人>を押さえるという主題になる。
    『存在と時間』の存在論では,<人>は「現存在 Dasein」の術語を以て一般化されて論じられる。
    ──「現存在 Dasein」の存在身分は,「存在者 Seiende の存在 Sein」の「存在者 Seiende」の方である。

    さて,実在隠蔽は,人の存在様相に含まれるものである。
    そこで,実在隠蔽と係わる「人の存在様相」を主題化しようとなる。
    しかし,これは一筋縄ではいかないものになる。
    そこで,この一筋縄ではいかない「人の存在様相」を,「実存 Existenz」のことばを用いて論点先取する。

    「実存 Existenz」は,論点先取で終わる。
    その先が続かない。
    実際,存在論は「実存 Existenz」でどん詰まりになって,途中放棄がお定まりとなる。


    以上は,あくまでも,イデア論に乗ったときの論理的流れである。
    イデア論は,プラトン,アリストテレスの時代だから哲学になるのであって,いまの時代においては,おとぎ話(註1)である。
    実際,物事は,複雑系であり,今に至るまでの物理的・化学的プロセスの結果である。
    それは「イデアの像」などという単純なものではないし,また「イデアの像」を言い出せばいくらイデアがあっても足りない。

    おとぎ話をまじめに引き摺ると,言い回しが畸形になり,畸形の度を増すばかりとなる。
    そして『存在と時間』が「畸形のなれの果てがこうである」を身をもって教えてくれるというわけである(註2)



    註1. つぎの言は自分自身に返るというわけである:
      細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, p.36
     
    存在問題を理解するうえでの哲学的な第一歩は、‥‥‥「おとぎばなしをする」のをやめる keine Geschichte erzählen ということである。

    註2. 細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, p.100
     
     以下の分析のなかで用いられる表現がぎごちなく Ungefüge「見ぐるしい Unschöne」という点について、ひとこと付言しておきたい。
    存在者について物語りつつ報告するのと、存在者をその存在においてとらえるのとは、まったく別のことがらである。
    後者の課題を遂行するためには、たいていの場合、そのための言葉が欠けているだけでなく、とりわけ「文法」も欠けている。
    この点について、昔の──その水準の高さではくらべようもない──存在分析的な研究に言及することがゆるされるなら、プラトンの『パルメ三アス』にふくまれている存在論的な章節やアリストテレスの『形而上学』第七巻第四章などを、ツキディデスの物語的な一節とくらべてみていただきたい。
    そうすると、ギリシア人たちにその哲学者たちが無理強いした言語表現がいかに未聞のものであったかがわかるであろう。
    まして、身にそなわる力がはるかに乏しく、その上、開示さるべき存在領域がギリシア人の目前にあったものよりも存在論的にはるかに困難なものであってみれば、概念形成のまわりくどさや表現の生硬さは、いよいよはなはだしくなるであろう。