Up 「維新」コンプレックス:はじめに 作成: 2016-04-07
更新: 2016-04-07


    自分の想いの実現を行動することは,必然的に,はた迷惑をすることである。
    「お互い様」のはた迷惑の一方で,酷いはた迷惑になるものがある。

    特に,想いが人の系の「維新」であるとき,迷惑はその系に棲む者全体に及ぶ。
    系が国であるときは,迷惑は国民レベルになる。

    「維新」は,ギャンブルである。
    「維新」ギャンブルは,複雑系を相手にする。
    その複雑系は,均衡の相で安定している。
    そこで,ギャンブルは,系の攪乱である。
    この攪乱が,「迷惑」になる。

    しかも,大きな均衡安定系に対する攪乱は,攪乱で終始する。
    「維新」ギャンブルに勝ちは無い。
    負けしかない。
    そして,負けのときの「迷惑」が,「人災」である。

    また,「維新」は,「悪者退治」になるのがつねである。
    (実際,ひとは,苦を「悪者」に転じる生き物である。)
    この「悪者退治」が,また「人災」になる。


    人災に対し,人災克服が取り組まれる。
    しかし,この取り組みがまた,「維新」ギャンブルになる。
    こうして,人災に人災が続く。

    この<人災連鎖>は,なくならない。
    人の本質に根ざしているものだからである。
    このことがわからずに<人災連鎖>を無くすことを想うのは,また一つの「維新」ギャンブルを始めることである。

    <人災連鎖>は,「是非も無し」である。
    これが,ヒトの進化の形である。

    <人災連鎖>は,無くそうとするものではなく (実際,無くせない),達観するものである。
    ただし,この達観をことばにしておくことが,大事である。
    作業のスタンスは,科学である。



    「維新」ギャンブルの元は,「維新」コンプレックスである。

    生活者を務めることは,周囲との抵抗を小さくすることである。
    ここに,周囲との抵抗を小さくすることを求めない者,できない者,知らない者が,それぞれ一定程度現れる。
    かれらは,つねに欲求不満に囚われ,「維新」を想う。
    これが,「維新」コンプレックスである。

    「維新」コンプレックスの者は,構えにおいて,つぎの2タイプに分かれる:
      1. 「維新の志士」
      2. 「維新の志士の登場を期待・観戦」
    「維新の志士」タイプの者は,「維新」を企画・実行できる立場が得られたら,「維新」ギャンブラーになる。
    「期待・観戦者」を自分の分際に定める者は,「維新」ギャンブラーの登場とその行動に自分を重ねる者になる。

    こうして,<人災連鎖>の達観は,「維新」コンプレックスの捉えがこれの内容になる。