Up 欺瞞 作成: 2018-03-20
更新: 2018-04-16


    禅は作為を棄却する。
    禅の業は作為であり,よって棄却すべきである。
    しかし,自分はその中にいるから,禅の業は肯定せねばならない。
    肯定の形はただ一つ,「企てるのではなく自ずと業をする」である。

    「企てるのではなく自ずと業をする」は,虚偽である。
    「企てるのではなく自ずと業をする」は,これをパフォーマンスすれば,欺瞞である。

    禅の師は,欺瞞の者である。
    「自分は,企てるのではなく自ずと業をする者である」をパフォーマンスする者だからである。
    実際,欺瞞の者にならずに<師>になることはできない。


    師には,二通りある。
    ひとには,切れ者とそうでない者がいる。
    切れ者は,確信犯で<師>の役に就く。
    他は,<師>の役が欺瞞であることを知らずにこの役に就いている者である。

    <師>の役が欺瞞であることを知らずにこの役に就いている者は,幸いである。
    その者は,はじめから,自己欺瞞の意識と無縁である。

    <師>の役が欺瞞であることを知っていて師になる者は,どうか。
    自己欺瞞の意識を抑圧できる可能性がある。
    実際,心理の機序は,抑圧したいものを抑圧できるようになっている。

    欺瞞の抑圧には,欺瞞の合理化が用いられる。
    欺瞞は《師であって,教えるものをもたない》であるから,合理化の形はただ一つである。
    即ち,「<教えてもらう>を却けるのが,<教える>だ!」である。
    これでめでたく「師であって,教えることをもたない」の成立となる

    残るは,自己欺瞞の意識を抑圧できない者である。
    この者は,確信犯として師を務める者である。