Up | 「新聞記事の著作権」主題化のコンテクスト | 作成: 2008-01-26 更新: 2008-01-26 |
事例一つを示すとしよう。 国立大学の高知大学で,2007年10月5日,次期学長を決める意向投票が行われ,開票後,投票用紙すり替え疑惑問題が起こった。これに対し選考会議が疑義なしとしたことで,同年12月26日に,学内から刑事告発 (窃盗と偽計業務妨害)・民事訴訟 (学長選考無効) がされた。 この問題は,国立大学に身をおく者,国立大学に関わる者,国立大学論を行う者にとって,重大な関心事になる。 特に,調査・研究へと向かう。
それとも,どの国立大学にも起こり得る種類のものか? 後者の可能性を考えて,調査・研究されねばならない。」 調査・研究では,新聞の記事が情報の中心 (実際上,情報のすべて) になる。 (問題の当事者が情報を自ら進んで広く発信する,というような状況にはないので。) 調査・研究は (個人的ではなく) 組織的さらに不特定多数的な関心によるものであるから,情報の共有が,調査・研究の中心になる。 すなわち,一連の新聞記事を不特定多数が簡便に共有できる形をつくり出さねばならない。 そしてこれは,「一連の新聞記事を転載したウェブページをつくる」になる。 ( ページ作成例) さて,このような場合,著作権が問題になってくる。 特に,作業する者は,自分のスタンスを定めるために,「著作権」のとらえ方を改めて問題にすることになる。 著作権は,「二次使用される・イコール・損」の認識に立つ。 しかし,上の例の新聞記事の場合,「二次使用されることが,新聞社の本意に適う」という点を,重要な点として見なければならない。 実際,「二次使用」は「連帯」である。 連帯の目的は,言論の活力と自由の保守──言論・情報の統制/一方的誘導の阻却──である。 この内容を論じることは,「著作権」の哲学を立てることになる。 そしてその哲学は,本論考の試みる「言論の活力と自由への貢献」論の趣きになる。 重要:哲学のないところでは,著作権法の独り歩きが起こる。
精神の病は,特に,著作権に対する<臆病>として現れる。 一般に,精神の病に自覚的になりこれを鎮めるために,ひとは科学や哲学を興す。 |