Up はじめに──本論考の主題・趣旨 作成: 2008-01-26
更新: 2008-01-27


    初期インターネットは,「共生」(「資源の共有」) の理想主義で導かれていた。 そして,「貢献」「互助・互恵」がユーザの基本スタンスにあった。

    インターネットの生活・経済インフラ化が進むにつれ,この理想主義は後退していく。 商業主義がインターネットを支配するようになる。
    インターネットは「貢献」の対象から「収奪」の対象に変わる。


    自分は,自分以外を収奪する一方で,自分以外から収奪される。

    自分に向かってくる収奪に対しては,収奪させまいとする。
    ここからさらに,「収奪させない」のルーチン化 (形骸化) が起こる。
    「収奪させない」は,「収奪」と「貢献」を区別しないものになる。 すなわち,外部を一様に退ける。


    初期インターネットの哲学は,「言論の活力と自由への貢献」であった。 しかし「収奪させない」が,「言論の活力と自由への貢献」がインターネットで生きることを難しくする。
    しかも,商業主義が「言論の活力と自由」をしきることをやり始める。


    良い悪いの問題ではなく,力学の自然として,商業主義は「言論の活力と自由」を自分の圏内に取り込もうとする。
    「言論の活力と自由」は,だれかから保証されているのではない。 「言論の活力と自由」はアンダーグラウンドに棲めば良しとするのでなければ,商業主義とのせめぎ合いを自らに課さねばならない。
    これは,インターネットの哲学として「言論の活力と自由への貢献」の哲学を改めて構築するということである。

    そこで,本論考において,この哲学がどのようなものになるかを探ってみることにする。