Up 意思を伝える/異を述べることを知らない 作成: 2009-01-06
更新: 2009-01-06


    未熟な教員は,<学業を課す>において,自分の研究スタイルを学生に押しつけることをやってしまう。
    特に,「指示待ち」タイプ風に見える学生に対しては,「課題を与えてやる」というつもりで,自分の研究スタイルの押しつけをやってしまいがちである。

    「指示待ち」は,「自分が放り込まれた世界が一体どんなのかわからないので,自分の課題の組み立てようがない」という状態である。 「与えてくれたものは何でも受け容れる」ということではない。 よって,《「指示待ち」学生に課題を与えたら,それが「アカハラ」になってしまった》は,ふつうにあり得ることとなる。

    教員が学生に学業を示すとき,教員は学生からのリアクションと,相談による学業内容の調整を想定している。
    このとき学生がリアクションを示さなければ,学生は「指示待ち」の扱いをされてしまう。
    したがって,学生は,教員が示してきた学業に対してリアクションできることが必要になる。 ──しかし,「自分が放り込まれた世界が一体どんなのかわからないので,自分の課題の組み立てようがない」という状態の学生の場合,これはむずかしいものになる。 (ディレンマ!)

    要点 : 学生は,教員に対し自分の意思を伝える/異を述べることを知らない。


    リアクションは,馴れである。
    最初は,相当「図々しくやる」という気持をもつよう努めていなければ,リアクションに臆して自ら縮んでしまう。

    教員は,学生が従うところのものではない。 教員は,学生がリアクションするところのものである。
    教員の方も学生にリアクションし,この相互リアクションから学んでいく。 これが,「大学の教育」というものである。
    このことがよくわかっていないで教員の示してくる<学業を課す>にそっくり乗ってしまうと,相当悲惨なことになる。

    大学教員Aが同僚の教員Bの「学生」になることを考えてみよう。
    BはAに<学業>を提案する。 AとBは,相談して,これをAに合った<学業>の形に調整していく。 Bは自分のスタイルをAに押しつけるということはしない。 Bに馴染むものは,Aに馴染むものではないからだ。 ──これが「個の多様性」である。

    AとBは,「学問」のやり方を知る者として互角であることを意識し合っているので,これができる。 こうして,思想も感性もまったく異なる相手を自分の教師にすることができる。

    学生と教員の関係も,本来このAとBのようになるものである。 このようでないとき,教員が自分のスタイルを学生に押しつける図になってしまい,学生の中には「アカハラ」気分に陥っていく者が出てくる。