Up | 「意向投票」の廃止 | 作成: 2014-11-19 更新: 2014-11-19 |
国立大学は,国立大学法人になった。 これは,国立大学が国立大学法人法に順うものになったということである。 国立大学は,国立大学法人法が定める内容に違反することができない。 「意向投票」は,法からの逸脱になる。 特に,「意向投票」に学長選挙の意味をもたせることは,法の違反になる。 「意向投票」は,国立大学法人法のどこを叩いても出て来ないというものである。 では,「意向投票」の意味は何であったのか? 組織は,従来型と180度転換するようなことをすると,ぐちゃぐちゃになることが見込まれる。 そこで,「少しずつ変える」が,法人化の手法になる。 飛行機の離陸には,車輪と主翼のフラップを用いる。 必要な高度・惰性を得たところで,これらは引っ込められる。 「意向投票」は,このような装置の一つである。 「意向投票」は,教員に対する懐柔策であり,「一時的使用」がこの策の位置づけであった。 翻って,「意向投票」をいまになお求めようとするのは,「意向投票」の意味を端(はな)から理解していなかったということになるわけである。 「意向投票」は,大学経営者が仮にやりたくてもできないものである。 法に違反する事がらになるからである。 国立大学法人となった大学の学長には,その時点で学長であった者がシフトして成った。 国立大学法人の学長は,学長選考の仕組みにより,一旦成った者/派が永久にその座に就く。 学長と対立する体(てい)で立つ者/派の出る幕は,学長のひどい失政と退陣という事態になったときに限る。 「一旦就いた者/派は,ずっと就き続ける」──これは国立大学法人法から導かれる命題である。 即ち,だれがなっても,こうなる。 そもそも学長になろうという者は,自分を是(ぜ) にして,自分の遺伝子を残そうとする者である。 以上は,現象論・構造論である。 一方,「意向投票」の実現を唱えるのは,実践論である。 さて,「意向投票」の実践論は,どんな形を取り得るか? 「意向投票」の要点を繰り返す。 「意向投票」は,大学経営者が仮にやりたくてもできないものである。 国立大学法人法に違反する事がらになるからである。 したがって,「意向投票」の実践論としてロジックが導くものは,国立大学法人法を廃止に導く実践の論である。 立法府に場に求めれば政治闘争であり,司法府に場を求めれば違憲闘争である。 この二つ以外に形は,無い。 即ち,その他となるものは,実践論ではない。 実践論でないとなれば,それは何か? ロジックとして,思考停止ということになる。 機能性を思考することの停止である。 大学の内部では,「意向投票」の廃止に対し,反対の「声明」をとりまとめようという動きが起こる。 さて,この実践論は,上に述べたうちのどの類か? 答えは言わずとも明らかである。 |