Up 学生犯罪を出さないための科目」とは? 作成: 2011-02-08
更新: 2011-03-29


    学生犯罪は,これが極悪非道の者がやることであれば,「人権・倫理」の科目開設の話にはならない。 「人権・倫理」が発想されるのは,「犯罪をする学生を極悪非道の者というふうにはできない」の思いが,もとにあるからである。

    では,どんな学生犯罪を考えているのか?
    つぎのタイプの学生犯罪を考えている:
    犯罪をしているときの学生には,「犯罪をしている」の意識がない。
    一方,「これは犯罪かどうか?」と質されれば,やったことが犯罪であることを認める。 やったことが犯罪であり処分を受けるべきものであることを,認める。

    このタイプの学生犯罪を抑止するための学生指導は,つぎを伝えるものになるのみである:
      こういう行為は,立場を変えると,こういうものになる。
    また,ことばにされると,こういうものになる。
    したがって,こういう行為は,立件されたら処分されるものになる。
    よって,こういう行為はするな!


    しかし,この「するな!」は,大学生が受講する科目にはならない。
    実際,「するな!」を言えば,当たり前のことになる。
    長々と回りくどく伝えるものにはならない。

    大学経営者には,自分の欲するものを簡単に成し得る方法として科目開設を安直に発想する傾向がある。 しかし「大学の科目になる」は,大学経営者が思うほどに単純なことではない。


    処分された者は,無知でやっったのではない。
    ──処分される羽目に自分がなるとは,思わなかったのである。
    処分される羽目に自分がなると思わなかったのは,無知に因るのではない。
    ──局面の判断を間違ったのである。あるいは,局面の計算を怠ったのである。

    するな!」を言えば当たり前のことになり,しかしそれを上手にやる/切り抜けることが生活の要素になっているものは,いくらでもある。
    例えば,世の中には「何とかしてもらえないか」話が山ほどあるが,そのうちには,ことばにすれば「犯罪」になるものも山ほどある。
    大学も然りである


    するな!」は,科目として成り立たない。
    実際,「するな!」を言われて「ああそうか,しないことにしよう!」となるそんな大学生がいたら,それは馬鹿者である。
    強いて科目の形として成り立つ論型を求めるならば,それは《「するな!」は単純な話ではない》である。 すなわち,「するな!」のメタ論である。


    註 : 《「人権・倫理」科目が犯罪抑止の効用をもつ》の形は,つぎのようではない:《「するな!」と言われたことを,しないようになる。》
    つぎがこれの形である:《<しない>を含めて,<上手にやる>を考えられるようになる。》