Up | イデオロギーのイデオロギーたる所以──「男女共同参画社会」の場合 | 作成: 2013-01-28 更新: 2013-01-28 |
そしてこの「男女不平等」論は,つぎを主張する「女性差別」論である:
「男女共同参画社会」を「人権・倫理」科目の内容に組み込もうとする者は,この組み込みの妥当性をつぎのように説明することになる:
「男女共同参画社会」の立場は,「各職種において男女比率が半々」を「男女共同参画社会」実現の指標/規準 (criteria) にするものになる。 そこでいま,「各職種において男女比率が半々」の論理的含意を展開してみる。 「各職種において男女比率が半々」は,「各職種において,それの予備軍・すそ野のところで男女比率が半々」を含意する:
「各職種において,それの予備軍・すそ野のところで男女比率が半々」の阻害要因は,家庭における「専業主婦」という存在様式である。 よって,「男女共同参画社会」の立場は,「専業主婦」を否定する立場になる。 そして,「専業主婦」否定のロジックに,「女性差別」を用いることになる:
家庭から専業主婦が無くなる形は,二通りである: 「男女共同参画社会」の立場は,これを家庭のあるべき形とすることになる。 そして,このあるべき形を潰しているものとして,「女性差別」を立てることになる。 「男女共同参画社会」の立場は,「女性差別」をつぎの問題にする:
このとき,「男女共同参画社会」の立場は,自分を<善い者><意識の高い者>として立てるものになっている。 そしてこのスタンスで,「改革」を唱える。 「改革」は,<悪者><意識の低い者>の障壁を「権力」のことばを以て高く定めるときには,「革命」のことばになる。 そして,<意識の高い者>は,「前衛」の位置づけになる。 <女性差別>からの女性の解放は,「権力に抑圧される大衆の解放」になる。 このように,「男女共同参画社会」は,革命イデオロギー,パルタイ・イデオロギーと構造的に同じものになっている。 そして,この構造的一致は,偶然ではない。 実際,「男女共同参画社会」は,かつての共産主義イデオロギー,パルタイ・イデオロギーがいまに生き残っているものである。 「革命」「パルタイ」は,何故に「イデオロギー」なのか? 「男女共同参画社会」は,何故に「イデオロギー」なのか? 「男女共同参画社会」の謂う「女性差別」は,何故に「イデオロギー」なのか? イデオロギーのイデオロギーたる所以は,問題の複雑性を見ないことである。 問題の複雑性を見ないで,問題を<悪者><意識の低い者>の単純な話にする。 よって「革命」に及べば,「思想改造」に邁進し粛清に明け暮れるようになる。 「革命」は,きまって大量殺戮と破壊で終わる。 「専業主婦」は,「女性差別」のつくるものではない。 これは,複雑系である。 例えば社会経済もこの中にすっぽり内包されるほどの,大きく複雑な系である。 ――即ち,家庭は「夫婦の一人が働いて生計を立て,一人が子どもを育てる」が効率的な形になる。 さらに,「妊娠・出産する女性が育児も担う」が,効率的な形になる。 「効率」に抗うことは,無理をすることである。 人は無理をしない方へ自ずとシフトする。 「効率」は経済である。 そして,現前の社会経済は,この種の経済をベースにしている。
「男女共同参画社会」の立場は,「専業主婦」を「女性差別」の問題として立てる。 この立場は,「女性差別」を<悪者><意識の低い者>の問題にする。 複雑系の問題として「専業主婦」を見る視野・見識をもたない。 「人権・倫理」科目では,この体(てい) の「男女共同参画社会」の論──ひどく雑な論──を,学生が聴かされることになる。 しかし,授業者の方は,これを正しい思想に導く「啓発」の授業と信じてやまないわけである。 |