Up 科目の本質疎外の構造 作成: 2011-02-07
更新: 2011-02-10


    「人権・倫理」の科目開設に至る流れの契機は,学生の「犯罪」で退学処分に至るものである。 また,教職員の「不祥事」(「セクハラ・アカハラ」等) で解雇処分に至るものが時期的にこれと合わされば,流れは加速する。
    大学経営者は,《組織は,2度とこういうことを起こさないための対策を,いっしょうけんめい進めている》の形をつくり,外に向けてこれをディスプレイしようとする。

    「対策」のディスプレイが先決課題であり,「対策」の実効性はこの場合二次的な問題になる。
    そして「対策」づくりには,もう一つ重要な意味がある。つぎに事件が起きたときに「できるだけの対策を講じてきた」を言えるようにしておくこと──すなわち,アリバイづくり──である。

    市場社会では,物は商品である。
    大学の授業科目も商品である。
    科目の意味を考えるときは,市場価値と使用価値の両方を考えねばならない。
    ここしばらく「戦略的」のことばを使うことが流行っているが,これは市場価値を指している。
    そして,大学経営者は,市場価値を考えるのが仕事である。
    一方,教員は,使用価値 (「授業のアウトプット」) を考えるのが仕事である。

    「人権・倫理」の科目は,大学経営者が「戦略的科目」と位置付けるものである。
    この位置づけが,「人権・倫理」の科目を本質疎外する。

    「本質疎外」は,よいわるいの問題ではない。 これは,「生活」の含意である。 「本質疎外」は,生活の要素として理解し,そのように付き合っていうことになるものである。

    《学生犯罪を2度と起こさないための対策として,「人権・倫理」の科目を開設する》は,論理になっていない。 しかしこれは,「市場価値による使用価値の本質疎外」のように捉える問題である。 (「論理になっていない」の<愚>をただ指摘するようなことをしても,意味がない。)