Up | 本論考の要旨・構成 | 作成: 2008-03-16 更新: 2008-03-18 |
そして<愚か者>批判が,<愚>の批判の形になる。 これをやるときは,つぎを絶対としたことになる:
<愚か者>の絶対化 (「<愚か>は為人(ひととなり) である」) は,「愚か者」を矯正とか粛正の対象のように見なすことへと進む。
国立大学の「法人化」で,大学教員は<愚>のオンパレードを自ら演じて見せる。 「最高学府」の大学にいる者が易々と<愚>を演じるとは,改めて考えてみれば,不思議なことだ。 著しくは,ちょっと前までは「反権力」を標榜していた者が,いまは「法人化」執行にせっせと努める。 これは何なのだ?ということになる。 「法人化」での国立大学教員による<愚>のオンパレードは,<愚>の原因が<愚か者>ではないことを示唆している。 示されていることは,つぎのことである:
<愚>に染まりやすい者のタイプ・傾向性といったものは,観察しても見つからない。 つぎのように断言してよい:
単にその時の「運」による。 よって,研究は,<愚か者>ではなく<愚>そのものに向かわねばならない。 考察することは,「<愚>をやってしまう・やらないで済む」とはどういうことか?である。 結論から言うと,<愚>とは,酔っぱらいの愚である。 酒場に入ると,酔っぱらって<愚>をやってしまう。 酒場に入らないと,<愚>をやらないで済む。 酒場に入ることになるか・ならないかは,その時の「運」である。 したがって,問題は,「酒場」なるものを知ること,「酔っぱらう」なるものを知ることである。 ──本論考は,これを行う。 本論考は,つぎの2つのパートでなる: |