Up 本論考の要旨・構成 作成: 2008-03-16
更新: 2008-03-18


    <愚>を見ると,ひとはふつう<愚か者>を原因にする。
    そして<愚か者>批判が,<愚>の批判の形になる。

    これをやるときは,つぎを絶対としたことになる:

      「自分は<賢い者>,相手は<愚か者>」

    <愚か者>の絶対化 (「<愚か>は為人(ひととなり) である」) は,「愚か者」を矯正とか粛正の対象のように見なすことへと進む。

     註1 : <正しさ>を競うタイプの政治権力闘争では,粛正が起こる。
    (例:スターリンによる「共産党員としてふさわしくない人間」の大粛正)
      2 : 「自分は<賢い者>,相手は<愚か者>」の絶対化が成立するものでないことは,だれでもわかる。 それでも「自分は<賢い者>,相手は<愚か者>」をやってしまうのは,そのときには「自省」がなくなっているからである。 「自省」を無くして「自分は<賢い者>,相手は<愚か者>」をやるのも,一つの<愚>である。


    国立大学の「法人化」で,大学教員は<愚>のオンパレードを自ら演じて見せる。 「最高学府」の大学にいる者が易々と<愚>を演じるとは,改めて考えてみれば,不思議なことだ。 著しくは,ちょっと前までは「反権力」を標榜していた者が,いまは「法人化」執行にせっせと努める。
    これは何なのだ?ということになる。

    「法人化」での国立大学教員による<愚>のオンパレードは,<愚>の原因が<愚か者>ではないことを示唆している。
    示されていることは,つぎのことである:

      ひとはだれでも,簡単に<愚>に染まる。


    <愚>に染まりやすい者のタイプ・傾向性といったものは,観察しても見つからない。 つぎのように断言してよい:

      <愚>をやってしまうか・やらないで済むかは,
       単にその時の「運」による。

    よって,研究は,<愚か者>ではなく<愚>そのものに向かわねばならない。
    考察することは,「<愚>をやってしまう・やらないで済む」とはどういうことか?である。


    結論から言うと,<愚>とは,酔っぱらいの愚である。
    酒場に入ると,酔っぱらって<愚>をやってしまう。
    酒場に入らないと,<愚>をやらないで済む。
    酒場に入ることになるか・ならないかは,その時の「運」である。

    したがって,問題は,「酒場」なるものを知ること,「酔っぱらう」なるものを知ることである。 ──本論考は,これを行う。


    本論考は,つぎの2つのパートでなる:

    1. <愚>の考察
      1. <愚>の構造

    2. 国立大学の「法人化」における<愚>の発生構造
      1. 組織論の発生
      2. 組織条件論
      3. 組織方法論
      4. 組織統治体制の形成
      5. 開戦
      6. 組織のインテリジェンスの低下