Up 本論考の主題:<愚>の構造 作成: 2008-03-16
更新: 2008-03-16


    国立大学の「法人化」とは何か?を考察していると,問題が結局一つのことに集約していく。 その「一つのこと」とは,人間の<愚>の度し難さである。

    すなわち,「法人化」で現れていることは個々に<愚>であるが,不思議なのは,国立大学といういわば最高学府でこれがあたりまえに現れることなのだ。
    そこで,つぎの疑問に,大いに悩むことになる:

      いったいどうして,このような<愚>の現れることが
       国立大学という場で可能になってしまうのか?


    ここに,ひとつヒントがある。
    酒に酔ってある一つの話題で大いに盛り上がる。 酔いが醒めてみると,「なんであんな話題で盛り上がることができたんだ?」になる。
    このギャップは何なのか?

    「法人化」の各種ワーキンググループ (教員が構成員) が,「法人化」施策の企画や成果レポートを,全教員に示す。 示された教員は,これを<愚>とする。
    ワーキンググループ教員は或る精神状態にあり,他の教員はこの精神状態から醒めている。 この差が,「前者のせっかくの苦心作に対し,後者は簡単にこれを<愚>にしてしまう」を導いている。

    ワーキンググループの苦心作を<愚>とした者は,つぎに自分がそのワーキンググループに入れば,他の教員から<愚>とされるものをせっせとつくることになる。

    人は,「酔う」と「醒める」の間を簡単に行き来できる。
    同様に,一つの人格で,「<愚>を自らやる」と「<愚>を批判する」の間を簡単に行き来できる。


    この行き来を止める術を身につけない限り,「法人化」の国立大学は際限なく<愚>をやり続けることになる。
    実際,「法人化」の国立大学が飽くなく<愚>を続けている理由の一つに,つぎのことがある:

      自分の行っていることを<愚>という形で対象化する思考法を持たない。

    したがって,「<愚>を対象化する方法」を研究の主題として据えることをしなければならない。
    本論考は,この認識に立って,「<愚>の構造」を考察する。