Up 要 旨 作成: 2009-10-01
更新: 2009-10-01


    組織における責任分限は,論理的・分析的な考え方では成り立たない。

    例えば,学生が学外で犯罪をやったとする。
    今日,学生犯罪は,学外のことでも,また学生の身分でやったものではなくても,学校の上部機関やマスコミが学校の責任を問うようになった。(『大学は<犯罪>をどう扱うか?』)
    学生は,専攻学科,部活等,大学の中のいろいろなグループに所属する。 これらグループは,階層構造をなしている。 どこが問責を受けるところとなるのか?
    答えは,「どこがというところは,無い」である。

    そこで組織は,「責任を引き受ける者」として,「トップ」を設けることになる。
    「責任を一手に引き受ける者」が,「トップ」の意味である。
    すなわち,トップとは,組織員に対しつぎのように言う者のことである:
     組織においては,いろいろな問題が生じる。
     組織とはこういうものである。
     問題発生を嫌がってはならない。
     責任はすべてわたしがとるので,思う存分やるように。

    しかし,この認識が壊れてきている。
    いまの時代は,細かな処理を求める。 ひとは,さらにこれに過剰に反応する。 細かな処理のソフィスティケートな形を求め,考え出す。 考え出すといっても,<思いつき>でこれをやる。
    これは,体質になる。 そして,細かな処理を考え出したらおかしくなるもの──すなわち,大雑把に/プラグマティックに考えねばならないもの──に対しても,この体質で応じていく。

    こんなふうになった組織は,「トップが責任を一手に引き受ける」は格好として不足していると感じる。 そこで,「責任所在」をさらに細かく求めて,懲罰実施の形づくりをしようとする。
    これを,<思いつき>でやってしまう。


    この組織は,つぎにどうなるか?
    事なかれ主義になる。──組織員は,問題が起きたときに懲罰が降りてきそうな役務は免れようとする。問題が起きたときに懲罰が降りてきそうな取り組みは,避けようとする。
    併せて,トップに対しては最初から不信で応じるようになる。