「大企業や大金持ちばかりがいい思いをして‥‥」のフレーズが選挙カーから流れてくる。
金持ちを妬む習性を「庶民」に当て込み,これを用いようというわけである。
金持ちを妬む習性は,普遍的なものではない。
実際,ロジックとして,<金を中心に展開されるゲーム>を人が自分の<生きる>形にするようになってからのものである。
そしてこれまたロジックとして,金持ちになることは,過剰なものをかかえて生きることであるから,うらやましい境遇ではなく,その逆の,たいへんな境遇ということになる。
「金 → いい思いをする」は,幻想である。
この幻想に囚われ,金持ちに対する妬みを習性にする者は,そのことで自らを不幸にする。
実際,「幸福」の話は,いつも金から解放されているところの話として語られる。
人は,己れをつゞまやかにし,奢りを退けて,財を持たず,世を貪らざらんぞ,いみじかるべき。昔より,賢き人の富めるは稀なり。
唐土に許由といひける人は,さらに,身にしたがへる貯へもなくて,水をも手して捧げて飲みけるを見て,なりひさこといふ物を人の得させたりければ,ある時,木の枝に懸けたりけるが,風に吹かれて鳴りけるを,かしかましとて捨てつ。また,手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり,心のうち涼しかりけん。
孫晨は,冬の月に衾なくて,藁一束ありけるを,夕べにはこれに臥し,朝には収めけり。
唐土の人は,これをいみじと思へばこそ,記し止めて世にも伝へけめ,これらの人は,語りも伝ふべからず。
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(『徒然草』第18段) |
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