Up | 「自己評価」フォーム愚劣論の立ち方 | 作成: 2008-02-01 更新: 2008-02-01 |
『教育実績の自己評価の導入』の中に,「自己評価」フォームがある。 愚劣である。── 学校教員養成系大学という場で「教育」を専門にしてきた者にとって,この愚劣を論じることはたやすい。 (「愚劣」についての論文が書ける。) 「教育研究評議会」といっても,中身はそれぞれ固有名をもっている教員,愚劣の認識は彼らにおいても同じであると見るのが自然である。 したがって,「意見等の提出」に対するスタンスとして,つぎの2通りを考えることになる: どちらをとるかで,「意見等の提出」の模様が変わってくる。 A.「愚劣」論の場合 『教育実績の自己評価の導入』で,「教育実績の自己評価の意義」がつぎのように述べられている:
教員の意識改革を行い、本学の教育目標を達成するために、教育の自己評価を行う。 これに対し,「愚劣」論は,つぎのように返すものになる:
「教育と研究」が「社会貢献」である。 (自分の持ち分をきちんとやることが「社会貢献」である。──そのようなものとして,国立大学はつくられた。) 「教育と研究」を「社会貢献」とする論を自ら立てられずに「社会貢献」を別立てするから,邪道を歩む羽目に陥ってしまう。 B.「わざとやるのはよいことではない」論の場合 「わざとやる」の普通形は,「裸の王様」である。 「裸」を見てるが,見てないふりをして「王様の服は立派だ」を言う。 この立場は,よく理解できる。 やっかいなのは,「わざとやる」を<前線論>でやっているかも知れない場合である。 すなわち,「国家権力の介入を招かないために面従腹背の戦略をとる」という伝統的なアレ。 この場合,「教育実績の自己評価」は,「国家権力の介入を招かないために」という合理化がなされる。 <場合>としてはいまの時代考えにくいのだが,そこは「個の多様性」である。現実にあるようだ。 「わざとやるのはよいことではない」論は,これらに対しつぎのように返すものになる:
あなたたちの立場・イデオロギーを正直に示して,それの合理性を全体に問うべきである。 |
参考:『「教育実績の自己評価の導入』で示された「自己評価フォーム」 様式
1.教育等に関する評価 1.1 特別な科目の担当等(平成19年度(2007年度)を対象)
*委員会活動としての取り組みは含めないこと。 **同一人はどちらか一方にのみ記載すること。 1.2 授業・教育改善の取り組み(平成19年度(2007年度)を対象)
2.自己評価に関わらない調査(回答は任意) 施設・設備等の教育改善を妨げる要因ならびにその改善策があれば記すこと。
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