Up 戦略的一時撤退論で「何でもあり」に 作成: 2007-09-02
更新: 2007-09-02


    法人化の国立大学は,行政から降りてくることをそっくり受け入れる。 かつて何かと「権力からの自由」が叫ばれていた国立大学とは,まったくの様変わりである。

    この様変わりの理由は何か?

    一つは,法人化パニックで思考停止状態に陥り,正常な思考ができなくなっているというのがある。(『<生き残り>バブル」)
    そしてもう一つ,「戦略的一時撤退論」を理由として挙げられるかも知れない。


    戦略的一時撤退論とは,つぎのように述べる:

      いまは戦略的に,権力の言ってくることに従っておこう。
       そうしないと,サボタージュを口実に,やられてしまう。
       やられてしまっては,本も子もない。

    戦略的一時撤退論は,ひじょうにたちの悪いものである。
    まず,つぎの3つは,動機は異なるが,やることは同じになる:

      行政施策に対する賛同
      行政施策に対する服従
      行政施策に対する戦略的一時撤退

    戦略的一時撤退論は,受け入れてはまずいものを受け入れるときの合理化になる。 ──結局,「何でもあり」になる。

    さらに,戦略的一時撤退論は,全体主義になる:

      この戦略的一時撤退は正しい。
       これに従わない者がいれば,それは敵に攻撃の口実を与える。
       したがって,全員をこれに従わせねばならない

    賛同と服従の場合は,少なくとも論理的には「組織の全員をこれに従わせる」は出てこない。 しかし,戦略的一時撤退論の場合は「組織の全員をこれに従わせる」になる。
    またこの意味から,戦略的一時撤退論は,都合のよい組織論になる。
    このように,戦略的一時撤退論はひじょうにたちの悪いものなのだ。


    戦略的一時撤退論は,国立大学の行政への対し方としては,もちろん間違っている。

    行政は,国立大学を屈服させたいのではない。 行政にとって,国立大学が行政に屈服するような程度の低い組織になるのは,困ることなのだ。
    いま行政は,国立大学を指導するようなスタンスをとっている。 それは,行政の目に,国立大学が程度の低いものに映っているからだ。

    国立大学が行政とか「有識者」とかメディアから程度の低いものに見られるようになったのは,学校教員を親が馬鹿にする社会現象と,本質を同じくする。

    法人化における国立大学の行政に対するスタンスの取り方が,正々堂々としていない。 これがいちばん拙い。 正々堂々としていないから,程度の低いものに見えてしまう。 ( 国立大学の方から行政を指導)
    ──この意味で,戦略的一時撤退論はあり得ないものになる。