はじめに──本論考の主題・趣旨 作成: 2007-12-24
更新: 2007-12-24


    国立大学の「法人化」は,一時の舞い上がり (バブル) である。
    やがて熱が冷めて止む。
    この間,組織は翻弄され,退行する (くだらなくなる)。


    歴史には,つぎのような波がある:

      個人が自分の能力を過大視し,現前を改めようとする (「改革」)。
      これに失敗して,自分の能力の過小視に転ずる (「保守」)。
      失敗を忘却して,自分の能力の過大視に転ずる (「改革」)。
      (これの繰り返し)

    現前は,人類史の現時点到達点であり,複雑系である。
    人は,この<複雑>の意味については何も知らない (幼稚)。
    「改革」は,幼稚な人間が現前 (複雑系) をひっくり返しにかかるわけだから,成功しない方があたりまえ。 「改革」は失敗するが,構造的な理由から失敗するのである。

      正しい「改革」を企画しそして成功させることは,単純に能力・技術の問題である。能力・技術のない者は,おかしな「改革」を企画し,そして失敗する。


    「改革」の失敗は,「改革」の企画者個人の失点という形で終わるのではない。 「改革」路線に乗った組織が破局を迎えるという形で終わる。
    だから,「改革」は組織の一大事になる。 ──「改革」事業が一大事なのではない。被害甚大が一大事なのである。

      「改革」による組織の被害甚大は,国の戦争と同じ構造になっている。──実際,国の戦争も「改革」として起こる。


    このような視点から,国立大学にとって「法人化」が何であるか?を,「改革」バブルに嵌る組織の運動力学という趣で考察する:

    • 組織はなぜ「改革」バブルに嵌るのか?
      ──どのような組織が「改革」バブルに嵌っていくか?
    • 「改革」バブルに嵌った組織は,どうなっていくか?


     註 : 研究を生業とする者の立場から言うと,国立大学の「法人化」は,これの渦中にいる者にとって,「改革」バブルに嵌ると組織がどうなるか?を研究するのにこれ以上はない素材である。 ──実際,このような機会には滅多に出会えるものでない。