Up 「王の任意」主義と「裸の王様」 作成: 2008-01-29
更新: 2008-01-29


    いま,国立大学の高知大学で,こんな事が起きている:
    国立大学関係者の少なからずが,「国立大学はこのような問題も起こるところになったのか!」と,感慨を深くしているだろう。
    時あたかも,いまケニヤでは,大統領選での不正問題が民族対立暴動に発展している。 二つは,同型である。

    事件の真相は司法の場で争われることになった。
    国立大学関係者にとっての問題は,真相がどうのというよりも前に,このようなことが国立大学で発生するようになるところの「国立大学の構造的変化」である。
    自分のところでも,果たしてこんなふうになるのか?


    行政が指導する「国立大学の法人化」では,学長は「リーダー」でなければならない。
    大学は,学長がリードする。
    学長は,学長選考会議を自分で組織することができる。
    したがって,学長選考の規則も,自分の有利に決めることができる。 ( 学長選考会議による学長再々任決定の含意)
    学長を続けるも辞めるも,意のままにできる。
    これは,「国立大学の法人化」の論理的含意である。
    「国立大学の法人化」とは,こういうものなのである。

    自分の思うように組織をリードすることを役とし,この役を続けるも辞めるも自分の自由という者は,「王」である。
    「国立大学の法人化」で,学長は王になる。

    ただし,「王」をやれということになっているが,ほんとうに「王」になることは現実にはむずかしい。 「王」をただやっても「裸の王様」になってしまう。


    行政が指導する「国立大学の法人化」では,意向投票のようなものは本来やってはならないものになる。 実際,学長がリードしてやる教職員が学長を選ぶというのは,論理矛楯である。
    では,なぜ意向投票か?
    意向投票は,「王」が「裸の王様」になることを防ぐために,行う。

    意向投票を「デモクラシーの最後の息」のように考えるのは,的外れである。
    意向投票は,一般教職員よりも先に,学長サイドがこれを必要とする。


    意向投票は国立大学法人の学長選考規則の中に規定され,そして学長候補者選考の「参考」とするために行われるとされているが,文字通り「参考」でやってしまうのは,意向投票の意味がわかっていない場合。
    高知大学の件は,意向投票がわかっているからあんなふうになる,ということになる。

      ただし,意向投票をすんなり乗り切ることに失敗したまま「王」に居座ると,「裸の王様」にもなれない。
      問題は,各国立大学で,学長サイドがこのあたりの認識を確かにもっているかどうかである。