Up 学長絶対制 作成: 2007-08-21
更新: 2007-08-21


    国立大学の「法人化」の法的根拠は,『国立大学法人法』と各国立大学が定める『規則』である。

    各国立大学が定める『規則』は,大筋では,国立大学間で横並びしている。
    横並びは,『規則』が『国立大学法人法』に則って作成されることの結果であると同時に,はじめから指向されたものである。

    この「法人化」法規の最大の特徴は,学長絶対制である。
    学長絶対を損なう内部的契機(例えば教授会)を,法規的に排除する。


    学長絶対制は,「民間の経営手法 (特にトップマネジメント) を導入すればうまくいく」の時代風潮にのった行政の産物である。
    教育事業と営利事業の違いのわからない経済界の者たちが,自分たちの優位を勝手に思い込んで,指導的立場をとった。国立大学の側はどうかというと,これも愚かにも自分たちの劣位を勝手に思い込んで,指導される立場をとった。

    営利企業は,儲けたら合格。
    競争・ギャンブルの世界に生きることで,起伏の大きいライフとなり,そして勝ち逃げや失敗倒産で終わるので短命。
    また,「儲けた者・生き残った者が勝ち」をスタンスにするので,社会の基礎になっている大事 (文化・暗黙的ルール・倫理等) を無視し,だめにする。
    いい・わるいの問題ではなく,営利企業とはそういうものなのだ。──いい・わるいではなく,ロジック!

    教育事業は,これの対極に位置する。
    儲けたら合格,となるのではない。
    競争・ギャンブルの世界に生きるのではない。 起伏の大きいライフを採れない。勝ち逃げや失敗倒産で終われない。
    儲けた者・生き残った者が勝ち」を退け,社会の基礎になっている大事をだいじにしなければならない。

    教育事業と営利事業のこの簡単な違いがわからなくなるのも,時代風潮というものだ。(嵌っているのが国立大学,というのがなんとも情けない限りだが。) 学長絶対制は,この時代背景とあわせて見ていかねばならない。


    営利企業のトップ絶対制は,トップ無謬論ではない。
    企業はトップの私物であるから,(潰すことも含めて) 自由にしてよい。

    これに対し,国立大学の学長絶対制は,学長無謬論に立っていることになる。 ──実際,国立大学は,学長の私物ではなく国民のものである。 この意味で国民に対して責任をもつ学長が絶対制を敷いているということは,学長無謬論に立っていることになる。

    学長無謬がチェックされる機会は,文部科学大臣による中期目標制定 (国立大学が作成の原案の認可),中期計画の認可,そして国立大学法人評価委員会による計画達成の総合評価であるが,いずれも形式的なチェックにとどまるしかない──内容的なチェックにはなり得ない。
    内容的なチェックを行えるのは組織内部からだけであるが,そこは学長絶対の世界になっている。


    国立大学の学長は,本来,会社の社長よりも村や国の首長の方に近い。
    デモクラシーは,首長の無謬論ではなく可謬論に立つ。そこで三権分立のような装置を立てる。
    法人化前の国立大学にはデモクラシーがあった。 行政は,このデモクラシーを「法人化」の法規で潰した。 これをすることが国立大学の将来のためにいいのだと思い込んで。

    現在,国立大学の学長絶対制をよいこととして信ずる者は,経済界は別にしても,教育行政や国立大学の中にはほとんどいないだろう。 しかし,学長絶対制は確固として保たれ,その強権の度合いを昂じていく。
    どうしてこのようなことになるのか?
    答えは,「運命共同体=保身」の力学。
    「運命共同体=保身」の人間関係が,事態をにっちもさっちもいかなくしている。