Up 要 旨 作成: 2011-12-13
更新: 2011-12-13


  1. 総括の必要

    「将来計画」は,現前の「総括」を含意する。
    言い換えると,「総括」は「将来計画」の必要条件である。

    「総括」の意味は,自明と思われている。
    しかし,この<自明>の気分は,少し自省してみるならば,思考停止であることがわかる。
    実際,「総括」の意味・理由・方法を,下手なりにも論じられる者は,たいしたものである。

    なぜ,「総括」が必要になるのか?
    いまの教育組織の当事者が将来計画の当事者だからである。
    人は変わっていないのである。
    同じ者がいまと違うことを将来にできるためには,自分の押さえが必要になる。
    これを行うのが,「総括」である。

    総括のない将来計画は,どんなふうになるか?
    いまの教育組織が「生き残り」「バスに乗り遅れるな」「機会損失」の思考回路の所産なら,将来計画もこの思考回路でやられるところとなる。
    いまの教育組織が<思いつき>の所産なら,将来計画も<思いつき>でやられるところとなる。
    いまの教育組織がある特定複数の思考類型の対立とそれの均衡の形であるのなら,将来計画も同じ特定複数の思考類型の対立とそれの均衡の形になる。


  2. 組織が総括を行わない理由

    ところで,組織は総括を行わない。
    先ずこの理由を理解しておくことが,的外れな執行部批判に組織をミスリードをさせないために,重要になる。

    組織が総括を行わないのは,総括をすれば組織の全員がばつの悪い思いをすることになるからである。

    全員が,失敗プロジェクトに加わったのである。
    トップがやったことは,ことば足らずのテーマを降ろすということである。
    このテーマに内容を与え,発展させ,異形のものを作り出すのは,いつも一般教員の方である。
    しかも,このことをいやいや行ったのではない。
    その気・乗り気になってやったのである。
    「トップダウンでやらされた」はウソである。
      Cf. 廃仏毀釈運動,さきの大戦
    「総括」をすれば,この事実と向き合うことになる。
    だから,組織は「総括」を行わない。


  3. 「改革」路線の総括

    現行は,「改革」としてつくられた。
    従来型が現行のスタイルに替えられた。
    従来型をなくすことが,よいことだとされたわけである。
    科目や課程の名称も,せっせと新しいものに変えられた。

    これを行ったのは,教員自身である。
    ワーキンググループも各種委員会も,構成員は教員である。

    そこで,「教育組織の見直し」は,教員が「改革」だとしてこれまでせっせとつくってきた教育組織の見直しである。

    「教育組織の見直し」としていちばんに見直すことになるものは,<つくられたもの>ではない。
    ほんとうに見直すことになるものは,<つくった者の考え方>の方である。
    特に,現行の教育組織づくりをリードしてきた考え方である。


  4. 総括は,思考類型の総括

    「教育組織の見直し」は,いまの教育組織の要素を個々に見直すということではない。
    教育組織は,特定思考類型が生成するところのものである。
    教育組織は,思考類型を<内包>としたときの<外延>である。
    この<外延>の方に見直しの対象を専ら定めるような「見直し」は,意味はない。
    このような「見直し」は,<内包>は同じにしたままであるから,これまでとどっこいどっこいのものをつくる結果に終わる。


  5. 合科主義 対 分科主義

    教育組織の議論は,合科主義対分科主義の形を現す。
    「多様な意見」のように見えるものも,だいたいが合科主義・分科主義のいずれかを根っこにしている。

    教員養成系大学・学部の教員には,教員養成課程を卒業して教員になった者と文・理系専門コースを卒業して教員になった者がいる。
    傾向として,教員養成課程を出た者は「専門教育」を知らない。
    文・理系専門コースを出た者は,「教員養成」を知らない。
    (自分では知っているつもりでいても,肝心なレベルでは知らない。)
    そして前者は自ずと合科主義に,後者は自ずと分科主義に,それぞれなる。

    合科主義対分科主義は,時節の優勢劣勢があって,振り子運動を現す。
    この運動力学は,《一方が主役をとる → 失敗する → 別の一方が主役をとる → 失敗する》である。
    なぜこのようになるかというと,合科主義も分科主義も,単独では功罪相半ばのものだからである。
    合科主義者は「専門教育」を知らない。 分科主義者は「教員養成」を知らない。

    「改革」として現行をつくるのは,合科主義がリードした。
    従来型教員養成課程復帰は,分科主義がリードすることになる。
    総括なしの「教育組織の見直し」は,振り子運動を現すのみである。


  6. 「教育組織の見直し」は,水膨れした教育組織づくりに

    「教育組織の見直し」は,新しいものをつくる。
    その一方で,これまでのものを維持する。
    これまでのものを維持するのは,それらをやめることができないからである。
    こうして,「教育組織の見直し」は,水膨れした教育組織づくりになる。

    なぜ,やめられないのか?
    理由は,総括を行わない理由と同じである。
    すなわち,<やめる>を行うことで具合の悪くなる者がいるからである。

    組織は,身内の都合を最優先する。
    実際,「組織」の意味には「身内を大事する」が含まれている。
    身内を不具合にしないために,水膨れした教育組織の図面を描くことの方が選ばれることになる。

    水膨れした教育組織の図面とは,無理な教育組織の図面のことである。
    それは,「教員と油は絞るほど出る」の図面になる。
    しかし,この無理を「無理」と言うことは,憚られる。
    《無理 → やめる → 具合の悪くなる者がでてくる》になるからである。


  7. 「教育組織の見直し」の進行予測

    教員においては,「教育組織の見直し」の進行を「if - then」形式で自ら予測計算できることが肝要である。

    「教育組織の見直し」では,思考回路の違い・対立が現れる。
    また,「教育組織の見直し」は,時限を立てている。
    「教育組織の見直し」の進行を「if - then」形式で予測計算するとは,この<思考回路の違い・対立>と<時限>の力学的安定相を「if - then」形式で計算するということである。
    そこで,<思考回路の違い・対立>と<時限>を理解できていることが,先ず必要になる。

    <思考回路の違い・対立>について
    • 教員全般に,執行部に対する不信がある。 不信には動機不信と能力不信があるが,「教育組織の見直し」では特に動機不信が顕著になる。
    • 教員の教育組織観に,合科主義 (「専門教育」を知らない) 対分科主義 (「教員養成」を知らない) の違い・対立がある。
    • 《自分 (のグループ) を不具合な立場に立たされないようにする》という思考回路が顕著になる。

    <時限>について
    • わかった気分でいるが,実際には意味・内容に対する思考停止がある。 ──改めて自問するとき,これについてきちんと答えられない自分を見出すことになる。

    「if - then」の「if」として最もありそうなのが,「教育組織の見直し」を曖昧政策で行うというものである。
    実際,《違い・対立は,曖昧を用いて蓋をする》は,しばしば見識のある政策である。
    総括を行わない・総括の形をずらすして示すというのは,この政策の一環である。
    そしてこの場合の「then」は,<水膨れした教育組織>づくり (=<無理な教育組織>づくり) である。