Up | はじめに | 作成: 2011-12-09 更新: 2011-12-13 |
そこで,「教育組織の見直し」は,「教育組織の見直し」とは?の問いから始めるところとなる。 現前の教育組織は,「教育組織改革」がつくったものである。 「教育組織の見直し」とは,その「改革」の見直しである。 「改革」は,よいことをやっているつもりで進めたものである。 「改革の見直し」が課題になるとは,「改革は間違いであった」を言う者が多数派になるということである。 「改革の見直し」は,「正しいつもりでやられたことは,間違ったことであった」を論ずる作業である。 「正しいつもりでやられたことは,間違ったことであった」の論は,自ずと,「改革」を推進した者・これに協力した者に対する責任論になる。 しかし,「改革」の時節は,ほとんど全員が「改革」の推進者・協力者になっている。 よって,責任論になれば,ほとんど全員がばつの悪い思いをすることになる。 そこで,責任論は自ら封じ込めるものになる。 そしてこのとき,責任論のもとになる「正しいつもりでやられたことは,間違ったことであった」論も,自ら封じ込めるものになる。 組織に「総括」は起こらないが,それはこのような力学が働いているからである。
正しいつもりで間違いをやった者が,総括を自ら封じて,新たな<正しいつもり>を開始する。 この結果は,明らかである。 端まで触れた振り子は,折り返して,もう一方の端に向かうのみである。 実際,教育組織の歴史は,同じことの行ったり来たりの振り子運動をあらわしている。 しかも「法人化」の国立大学では,「自分に罪はない」の合理化に「トップダウン」を立てるのが常套になった。 これは,「自分に罪はない」の合理化に「権力」を立てる思考回路と同じである。 事実はどうかといえば,トップから言葉足らずで降りてきたテーマに対し,内容を自分で勝手に発展させ,異形のものに仕立て,組織全体に強制し,逸脱を許さぬための管理に努めるのは,いつもダウンの側である。
「教育組織の見直し」の課題を立て,見直そうとしている現行は,教員自らが「改革」のつもりでつくってきたものである。 例えば,教養課程科目には生活単元的な名称の科目が並んでいるが,これは教員自ら,「改革」のつもりで,自らの意志でせっせとつくったものである。 「教育組織の見直し」をこれからやろうとするのは,問題の教育組織を「これが正しい」調でつくってきた教員自身である。 彼ら教員は,いまより<愚>から<賢>に転じるとでもいうのか? 中身は変わらない。 同じ考えが別のことばで述べられるだけである。 実際,教育組織の考え方には類型がある。 個人はどれかの類型にはまっており,「改革」も「教育組織の見直し」もこの類型に従わせる。 したがって,「教育組織の見直し」に「転機到来」のような見方をするのは,たいてい裏切られる。 教育組織の考え方には類型がある。 合科主義と分科主義である。 教育組織の議論は,合科主義対分科主義の形を現す。 「多様な意見」のように見えるものも,だいたいが合科主義・分科主義のいずれかを根っこにしている。 教員養成系大学・学部の教員には,教員養成課程を卒業して教員になった者と文・理系専門コースを卒業して教員になった者がいる。 傾向として,教員養成課程を出た者は「専門教育」を知らない。 文・理系専門コースを出た者は,「教員養成」を知らない。 (自分では知っているつもりでいても,肝心なレベルでは知らない。) そして前者は自ずと合科主義に,後者は自ずと分科主義に,それぞれなる。 合科主義対分科主義は,時節の優勢劣勢があって,振り子運動を現す。 この運動力学は,《一方が主役をとる → 失敗する → 一方が主役をとる → 失敗する》である。 なぜこのようになるかというと,合科主義も分科主義も,単独では功罪相半ばのものだからである。 ──合科主義者は「専門教育」を知らない。 分科主義者は「教員養成」を知らない。 「改革」として現行をつくるのは,合科主義がリードした。 従来型教員養成課程復帰は,分科主義がリードすることになる。 総括なしの「教育組織の見直し」は,振り子運動を現すのみである。 |