Up | 能力としてのデモクラシー | 作成: 2007-06-01 更新: 2007-06-01 |
デモクラシーを行う・行わないは,基本的に,能力の問題。 一般に,「自分がしないのは,しようと思わないから」「しようと思えばいつでもできる」「しようと思わないのは,特にしなくてもいいだろうから」と思う者は,実は,「することができないから,していない」者になっている。 そして,「することができないから,していない」者に自分がなっていることに,気づかない。 「しようと思えばいつでもできる」タイプは,心根(こころね) の良し悪しで他と競おうとする。「こっちは心根が良いが,あっちは悪い」みたいな差別化をする。 すなわち,善と悪,正と邪を立てることになる。 そこで,一刀両断的に言えば,つぎのようになる:
このような者がトップに就くと,体制は密室的・隠蔽的になり,そしてそれは独裁体制へと進む。 特に,権力闘争がデモクラシーの能力をもたない者同士のものであるとき,どっちが権力をとっても似たり寄ったりの体制になる。 一般に,行う者 (己を開く者) は<個の多様性>の考えに進み,行わない者 (己を閉じる者) は<善と悪>の考えに進む。 デモクラシーは,<個の多様性>を採って,<善と悪>の世界観を退ける。 したがって,デモクラシーのリーダーが<善と悪>で競われることがあるとすれば,それはまさに噴飯物。 デモクラシーは,人の成長とともに自ずと身についていくというものではないし,また簡単に学ばれるものでもない。 デモクラシーの哲学・世界観は難しい。デモクラシーを担う者は,よほど賢い者でなければならない。 ── Dewey がデモクラシーを教育 (デモクラシーを支える人づくり) とペアで考えた所以である。 デモクラシーの能力は,実践能力である。 <デモクラシーを確立し保守する主体>として自ら立つ実践能力であり,当事者能力である。 デモクラシーは,ひじょうに危うい格好で保たれている。 すなわち,<デモクラシーを確立し保守する主体>が組織の中で減衰するとき,デモクラシーはたちまちに無くなる。 ここで,デモクラシーが無くなるとは,「<強力なリーダシップ>を担う選良とそれに従う愚衆」の体制になるということ。 国立大学の法人化では,「学長の強化されたリーダシップ」がすんなり組織の中に入った。 学長派が強力だったからではない。 デモクラシーの能力が,組織に無かったからである。 すなわち,<デモクラシーを確立し保守する主体>の行動が,組織に無かった。 実践能力としてのデモクラシーは,デモクラシー・リテラシーである。 このデモクラシー・リテラシーに関しては,国立大学の教員はおそろしいほどに無能であった。 無能の理由は,デモクラシーは学ぶのが難しく,そしてそれをきちんと学んだことがなかったということ。 彼らは,伝統的に,「執行部/中央/前衛党指導とそれに従う大衆」「善と悪」「ボロは着てても心は錦」「匿名」「お仲間密通」の世界観に親しんでいた,またそれが身に付いていた。 そのために,デモクラシーのクリティカル・ポイントというところで,いつもヘマをした。
「デモクラシーを精神風土とする国立大学の中に強権の学長が現れてきた」のではない。 かなり以前からデモクラシーは存在していなかったのである。 デモクラシーの発動を必要としないぬるま湯状態を「デモクラシー」だと勘違いしていたに過ぎない。 そして,デモクラシーの発動が必要なときに,デモクラシー・リテラシーの無能をさらけ出した。 これが,「学長の強化されたリーダシップ」の総括である。 |