Up | 評価主義/競争主義の論理 | 作成: 2006-09-29 更新: 2006-09-29 |
評価主義/競争主義は,一つの人間観/労働観/世界観である。 これには,つぎの2タイプがある: A と B は,互いに裏返しただけのように見えるかも知れないが,そうではない。 A の関心は優良者であり,不良者は考慮の対象にない。 これに対し,B の関心は不良者であり,優良者は考慮の対象にない。 国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」は,評価主義/競争主義に立っており,そしてこの評価主義/競争主義はタイプ B である。 以下では,タイプBの評価主義/競争主義について専ら論ずる。 評価主義/競争主義は,「不利な立場に立たされる者」をつくる方法であり,その装置が「一斉評価/競争」。 「不利な立場に立たされる者」をつくる方法論はいろいろあるが,これらの中にあって評価主義/競争主義を特徴づけているものは,「一斉」である。 ──実際,この「一斉」の意味を問うことで,評価主義/競争主義の本質が見えてくる。 なぜ「一斉」か? 「公平」「平等」「自然発生 (spontaneous)」を満足させたいからである。 この「一斉」には功罪があり,その罪は「みんながこれに付き合わされる」である。 余計な仕事が増え,コストがかかる。 評価にパスすることが目的の仕事は,本質的な仕事ではないし,つまらない。 つまり,つぎの構図になる:
99人を無駄な作業に付き合わせる。 また,これを実施するためのコスト (金/時間/労働) を捻出する。 評価主義/競争主義でやられることは,「悪平等」と無駄遣いなのだが,平等主義には間違いないので,通りがよい。 また,ダメ出し役 (「意地悪」) をつくらないで済む。 一方,ここでわれわれが見なければならないのは,これが通ることと裏腹につぎの<良識/常識>が引っ込んでしまっていることである:
国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」にパスするために,大学はいろいろなことをやっている。 しかし,評価にパスすることを目的としてやっている仕事は,本質的な仕事ではない。やってる者には,無駄であり,つまらない。 これから導かれること:
続かない,後に残らない。 ──全体として莫大な国家的無駄遣い |