Up | 「強いリーダーシップ」 | 作成: 2007-05-08 更新: 2007-05-08 |
その中に,『望ましい学長像』というのが含まれている。 この文書は現執行部の傾向性をよく現すものになっていて,これに含まれる論点ともども,興味深い。 それは「強いリーダーシップ」が掲げる:
ここで謂う「強いリーダーシップ」がどのようなものを指すのか,典型事例を示そう:
これを定める担当の委員会は,「分野の多様性により,このようなことは無理だ」と結論した。 実際,常識ある大学人なら誰が考えても「無理」となる。 しかし「学生報奨」を通すことを「大事」と考える大学執行部は,「分校の副学長に一任」という形で「学生報奨」を強行した。 そしてこのことで,執行部は一般教員からの<軽蔑>のポイントをまた一つ加えることになった。 さて,ここにあるのは「独善」と「強行 (ごり押し)」であって,「強いリーダーシップ」ではない。 実際,「強いリーダーシップ」の意味がきちんと (すなわち,大学にふさわしく学術的に>) 考察されたことは,これまでついぞなかったのである。 「リーダーシップ」の理解の仕方には,サヨク的とリベラル (自由主義的) の2つの型が区別されるものとして考えられる。 サヨク的は,「(ものごとをよく理解している) 指導者が (愚かな) 大衆を導く」(党指導/中央指導) の図式になる──「知は指導者にある」。 リベラルの方は,構造がだいぶ複雑で,「知は個にある」。知が個にある状態の「リーダシップ」だから,それはオーケストレーションのような趣になる。(メンバーの側の受け入れがなければ,リーダシップは立たない。) 教員養成系大学/学部は,もともとサヨク的なイデオロギーと親和的であった。 ここではこの内容に踏み込まないが,こうなる歴史的な事情/必然があったわけである。 そして「執行部指導」が組織運営の形となり,続いてきた。 この精神構造は,大学の法人化にもそのままの形でシフトされる。 すなわち,「法人化」は「執行部指導」でこれを行う──「知は指導者にある」。 しかし,国立大学ではサヨク的「強いリーダーシップ」は簡単ではない。 大学人は,「(ものごとをよく理解している) 指導者が (愚かな) 大衆を導く」の図式にあてはまるほどには十分「愚か」でないからだ。 実際,『望ましい学長像』や『学長選考規則』に執行部の本音を読むのは,一般大学人にとって造作ないことだ。 こんなバレバレの位相で「知は指導者にある」をやっていくのは,執行部にとって本来たいへんなことである。 一方,「執行部指導」の精神構造は,バレバレの位相を認識しないほどに十分自惚れが強いことで,己を保っている。 そして,「強いリーダーシップ」のつもりで「独善」と「強行 (ごり押し)」をやってくる。 今日「法人化」に対する世の中の認識に少し変化が現れてきて,「商業主義で大学をやらせたらどうなるか?」「商人と官僚に大学を主導させたらどうなるか?」が考えられるようになってきた。国立大学は正道/王道でしか立つものではないことを考えられる正気が,ようやく戻ってきつつあるように見える。 しかし,北海道教育大学の執行部は,「生き残りのために,なりふり構わず」の路線を相変わらず疑っていない。 そして,「生き残りのために,なりふり構わず」の路線を進める「強いリーダーシップ」を,『望ましい学長像』で謳うわけだ。
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