Up | 「望ましい学長像」の装置的意味 | 作成: 2007-05-13 更新: 2007-05-13 |
第2条 学長の選考は,国立大学法人北海道教育大学学長選考会議(以下「学長選考会議」という。)が行う。 (選考基準) 第3条 学長となることのできる者は,人格が高潔で,学識が優れ,かつ,本学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営することができる能力を有する者とする。 2 学長選考会議は,学長の選考に際し,あらかじめ,前項の規定に基づく望ましい学長像を提示するものとする。 (意向聴取及び面接) 第8条 学長選考会議は,学長候補者選考の参考とするため,学内の有資格者に対する意向聴取及び学長候補者に対する面接を実施する。 直近の学長選挙を控えて作成された「望ましい学長像」は,つぎのようになっている:
この『望ましい学長像』がどのような装置になるのか,ここで押さえておくことにする。 わかりやすいように,対立候補Aがどのようになっていくかを見てみよう。 「対立候補」の「対立」の意味は,現学長/大学執行部の立場・政策を「否」とするということである。 したがって特に,「望ましい学長像」を「否」とする,を含意する。 対立候補Aは学長選考会議の面接を受ける。 学長選考会議は,Aが「望ましい学長像」に適っているかどうかを判定する者として,Aに質疑する。 このときのAがとる行動の選択肢は,つぎの2つである: 1 を選択すれば,「不正直」を全体に曝されることになって,自滅する。 2 を選択すれば,不適任者と判定される。 このように,対立候補には立つ瀬がない。 つまり,「対立候補」は成立しない──論理的に成立しない。 メチャクチャであるが,このメチャクチャは現実のものである。 一般に,制度をつくるときは,制度を使う側の一定の良識を想定している。 制度の悪用を塞ぐために制度を緻密化するということをしたら,きりがないし,そもそも制度として使えるものでなくなる。 制度をつくるときは,「そこまではやらないだろう」の一定の性善説に立つことになる。 「強化された学長のリーダシップ」を国立大学に要求したのは行政と経済界だが,これが政権の永続化に「悪用」されるという事態は,彼らにとっても想定外のものになる。 制度の悪用は,多くの場合,悪人がするのではない。 制度悪用をしている当人の意識は,「制度の活用」である。 マネーゲーマーは,自分の行いをモラルの面から批判されるとき,「制度の定めている中でやっている,何が悪い」の論法で自分を合理化する。 彼らを諫めるのはモラルしかない。しかし,モラルを知っていれば,端から制度悪用はないわけだ。 大学執行部による「強化された学長のリーダシップ」の悪用も,当人たちには「悪用」の意識はない。 彼らは,「自分たちが指導しなければならない」という意識をもつタイプの者たちなのだ。 制度悪用で独占・独裁を果たそうとする者への批判で用いるモラルは,デモクラシーである。しかし,デモクラシーを知っていれば,端から制度悪用はないわけだ。 自由主義/デモクラシーは,「自分たちが指導しなければならない」という意識を危ないとし,退けようとする立場だ。 「自分たちが指導しなければならない」は,悪意ではなく善意であるからこそ,扱いがやっかいなものになる。 宗教やイデオロギーを扱うやっかいさと似ている。 「自分たちが指導しなければならない」は,必ず独裁政治に向かう。 過去に共産主義革命で建った政権は,みなこうなった。 独裁の装置をつぎつぎと固めていって,「崩壊」という形でしか終われない体制を築いていったのである。 「強化された学長のリーダシップ」は,デモクラシーの文化が根付いていない大学の場合,必ず独裁政治に向かう。 北海道教育大学の学長選挙は,これを確証するうってつけの研究素材である。 |