Up | 「厳しい状況」への反応の<個の多様性> | 作成: 2007-05-15 更新: 2007-05-15 |
デモクラシーは,<個の多様性>の原理に立つ。 一つの出来事に対する人のリアクションは,必ず多様になる。 そしてそれぞれが「自分は正しい」と思う。 そこで,多数決のルールを導入する。 これがデモクラシーである。 デモクラシーは,個々がつぎのことを理解し,この理解に沿う行動をとるという条件のもとで成り立つ:
逆に,デモクラシーは,つぎのタイプの人間によって壊される: 「<個の多様性>を知らない」: わが国ではデモクラシーは (「民主主義」と訳されるように) 反権力の装置のような意味合いで受け取られている。デモクラシーの根本思想の<個の多様性>は,学校教育で学問的に扱われることがない。 したがって,「<個の多様性>を知らない」派はかなりいる。 「独善的」: 国立大学では,反権力と左翼イデオロギーが重なった時代の名残として,「前衛」「中央指導」の精神構造が残っている。これがしばしば「独善的」の相で現れてくる。 以上が予備知識の押さえで,ここからが本題。 「法人化」が入ってきた国立大学には,「<個の多様性>を知らない」も「独善的」も棲んでいた。 「法人化」は,「大学を取り巻く状況は厳しい」と「学長の強いリーダシップ」の2つをあわせてもってきた。 <個の多様性>は,「大学を取り巻く状況は厳しい」への反応においては,対立するつぎの2通りの形で現れる: 「なりふりかまわず」派は,「本業保持」派を「甘い」「世間知らず」とする。 「本業保持」派は,「なりふりかまわず」派を「本業知らず」とする。 「なりふりかまわず」と「本業保持」のどちらにつくかについては,教員・事務職員の別は基本的に関係ない。 実際,DNA のもじりで言えば,二つの因子の存在割合は,確率的なものである。(種は必ず多様になろうとする。同じ傾向性のものを集めると,今度はその中で多様性が発生する,といった具合。) しかし,本業の現場に疎い者,本業についての思慮能力の低い者が「なりふりかまわず=本業軽視」派につきやすいということは間違いない。 そして,つぎのことが起こった:
数多の事例が示すように,「なりふりかまわず」はバブル (集団狂気) として進行し,失敗し,そして後悔だけが残る。
そして「失敗が自明なものに進む」が「バブル (集団狂気)」の意味なのだから,「バブル (集団狂気) として進行する」の言い方になる。 しかし,どんなに事例を積まれても,「われわれを取り巻く状況は厳しい」に対しては「なりふりかまわず」が優勢になる。 理由はつぎの2つ: もっとも,「なりふりかまわず」派は,自分の派こそがたくさん思考し労働していると思っている。 しかしそれは,ギャンブラーが必死に思考し労働しているのと同じ類のものだ。 「なりふりかまわず」派は<本業>でギャンブルしているのだが,そのことが彼らにはわからない。 ただし,デモクラシーが貫徹している場では,失敗が見えたら軌道修正が働く。 悲惨なのは,「なりふりかまわず」派と「自分こそが正しい」派が重なり,「学長の強いリーダシップ」制度を利用し,独裁体制の道を進み出した場合。 ──このときは,本業破壊を尽くすところまで進む。 |