Up はじめに 作成: 2007-09-03
更新: 2007-09-07


    北海道教育大学では,現在,行政が行う大学評価への対応の一項目としてつぎのことが課題にされ,そしてこれの実現が進められている:
      「ウェブベースのシラバスにおいて,
       すべての科目のシラバスを統一フォームにしたがわせる。」
    そして,この実現の方法は,「検閲」である。

    検閲業務は,各分校のカリキュラム委員会に降ろされる。
    委員会は,検閲を自分の職務/義務と理解し,教員が作成するシラバスをしらみつぶしにチェックする。 そして,基準にあわないシラバスを作成している教員に変更を指示 (「依頼」) する。


    検閲を指令する側のアクションを理解しようとするとき,「集団心理」が要点になる。
    実際,その行動パターンは,「異形狩りの集団狂気」に類する。

    「異形狩りの集団狂気」は,つぎの構造をもつ:

      恐怖の対象がある。
      これの怒りを買わない行動を皆が一緒にとらねばならない,と考える。
      この全員一致行動に入ってこない者 (異形の者) がいる。
      恐怖の対象の目にはいる前にこれを始末しようということで,異形狩りをする。

    このとき,自分のたちの異常行動を異常と意識しない。
    ゆえに「集団狂気」である。
    そして,しばらく経ち上気が収まったところで,「なんであんなことをやったんだろう」になる。


    検閲の指令に従う側のリアクションも,興味深い。
    これは,「受容/流される」と「看過」が重なったものになる。

    「受容/流される」とは?
    ひとは,組織の名前で出てきたものには「抗えない」ものを感じる。

    ディズニーランドのミッキーマウスの中身は人だが,それを考えないことでディズニーランドが成立する。 ディズニーランドとはディズニーランドごっこのことで,「ごっこ」をみんなで努め合うことが,ディズニーランドが成立するということ。

    組織もこれと同じ。 組織とは「組織ごっこ」のことである。
    組織に「抗う」ようなことをすれば,人をオモテに出させることになり, 人をオモテに出させるのは,「組織ごっこ」破りになる。
    「組織ごっこ」破りをしないことは,カラダに染みついている。 そこで,組織の名前で出てきたものには「抗えない」ものを感じる。

    「看過」とは?
    組織全体にわたって,シラバス検閲は「検閲」と捉えられていない。
    このようなシラバスづくりには意味がない・無理がある」のようなクレームにとどまる。
    実際,検閲 (一般に,統制) は,このような形で,ゆるやかに組織の体質になる。
    ひとは,「検閲/統制」をどこかよそのひどい国や組織の話だと思っていて,自分が既にこれに浸っていることに気づかない。
    これが,「検閲/統制」の力学である。

    「看過」されやすいのは,どうしてか?
    ひとは,「検閲/統制」を構造的な問題としては捉えない。 「気持ち」の問題にする。
    善かれの気持で行われる検閲/統制は,「検閲/統制」ではないのだ。
    検閲/統制は,いつもこのような形で降りてくる。
    歴史上の悪名高い全体主義国家も悪名高いワンマン経営の会社も,検閲/統制にはいつも「善かれ」の気持が付いている。


    「統一フォームシラバス強制」は,以上述べたような「人と組織」の問題を顕す。
    本論考は,この問題の構造を明らかにしようとする。