Up | 「高校の微積を教養科目で」 | 作成: 2009-12-05 更新: 2009-12-05 |
教員養成課程に入ってくる学生──特に,「小学校教員養成専一」を謳っている大学に入ってくる学生──は,「教員養成課程は文系」の思い込みもあって,高校数学の III をやってきていない者たちである。 そこで,「解析学 I 」の授業を担当する教員だったら,つぎのような思いをもつ:
この考え方は,つぎのことを見ていない: 高校数学には,大学数学にとってはいちばん肝心なつぎのものが無い:
そこで,大学の解析学は,高校で微積分をやった・やっていないにかかわらず,微積分の授業をはじめからやり直すことになる。 そしてそれは,正真正銘「大学の数学」になる。 (実際,高校教員のように微積分を授業しようとは思わないだろう。) そもそも,「高校でやった・やっていないにかかわらず,はじめからやり直す」が,大学の授業の普通の形である。 大学の授業は,高校の授業の上に置かれるのではない。 大学の授業は,高校の授業をリセットするのである。 リセットするのであるから,おかしな教育を受けてきた者より,まったく白紙の者の方がやりやすい,ということもある。 「おかしな教育でも,やってきている方がはるかに助かる」と思うのは,願望がそう思わせるのである。 この願望は,自分の授業にやりにくさを感じる度合いに比例して,強くなる。 授業でやりにくい点は,その授業に本質的なことと思うべきである。 問題の所在を他に求める考え方は,たいてい勘違いをやってしまう。 特に「他の科目頼み」は,勘違いのはなはだしいものになるので,注意しなければならない。( 「他の科目頼み」の意味を勘違いしている ) 例えば,高校数学教育法の授業では,「微分・積分」の意味を改めてやる。 「すでにやっているだろう」からは始められない。 すでにやっていても,手数が省かれるわけではない。 同じ主題・題目でも,授業が違えば,扱う形も内容も違ってくるのである。 「既習」を「効率・非効率」の視点で見るのは,間違いである。 一般に,教育を「効率・非効率」で考えると,必ず間違う。 教育は,非効率であり,そして非効率でなければならない。 なぜなら,<学習>はカラダの出来事であり,カラダは非効率であるからだ。 |