Up 「学生のため」と規則の関係 (1) ──優先度の計算 作成: 2006-04-27
更新: 2006-04-27


    移行期旧課程の科目履修は,非常に窮屈なものになっている。
    移行期開講計画などは,実際にフタを開けてみなければどうなるかわからない要素はあったが,これに学生の想定外の履修行動が加わって,いろいろ問題点が顕れてきているようだ。(特に報告が行われていないので,実態はよくわからない。) 移行期開講計画の見直し論が起こり始めているとも聞く。(実際のところはよくわからない。)

    科目履修に関する規則見直しは,「学生のため」と規則の関係の一主題になる。
    規則は大事な或るものを保障している。規則の変更は,その保障の変更を意味する。そこで,科目履修に関する規則見直しは,「学生のため」と「規則が保障しているもの」の間で優先度の調整計算を改めて起こすことを意味する。

    この計算は,合理主義にしっかりと立つ必要がある ( 非常事態では合理精神の退行が起こる)。この立ち位置に意識が及ばないと,たちまちに無内容な「学生のため」の音頭に蹂躙される。そしてこの蹂躙によって,組織の疲弊は極限へと進む。


    さて,規則が保障している「大事な或るもの」とは何か。それは,構成員が疲弊/消耗から守られるということだ。──これは「大学の体 (てい)」を保つことに通じる。

    大学の体は,研究と教育。盤石のように見えるかも知れないが,それが壊れるのは簡単だ。構成員の疲弊/消耗という形でそれは壊れる。
    合理主義を欠落した「学生のため」は,「大学の体をうっちゃって,数合わせにバタバタする」ことに向かわせる。その中で構成員は疲弊/消耗し,そして,疲弊/消耗度の高さで人間価値を競い合う倒錯した組織がつくられる。

    「大学の体をうっちゃって,数合わせにバタバタする」は,どんな時と場合においても,許してはならない。──「大学の体をうっちゃって,数合わせにバタバタする」は,「一生懸命」ではなく,単に「愚か」ということだ。

    移行期開講計画は,教員スタッフの自己申告でつくられた。教員スタッフをよほどズル・怠け者と見るのでなければ,移行期開講計画は尊重した方がよい。最も最悪なのは,個々の内情を知りもしない人間が,わかったつもりであちこちいじり出すことだ。(わたしは,本館改修工事の時期に,個人の事情は他からは決してわからないものだということを,身に染みて知った。)


    そしてこれとあわせて,「学生のため」の意味を,大学人らしく (大学人の頭脳で) 考えることをしなければならない。岩見沢校のほとんどの学生は,大学における勉学というものを知らない。科目履修に係わる学生のバタバタは,教員が歩調を合わせて付き合うようなものではない。副免の算段に付き合うことを「学生のため」と思っているのなら,それは了見違いだ。

    科目の提供は,数の多いことが尊いのではない。数が多くなったのも,本来の必要からそうなったのではない。
    学生のバタバタを目の当たりにして,本来先ず行うべき事は,「バタバタするな !」と言ってやること。そして,大学の勉学のそもそも論を教えてやることである。