Up 本分/役割の忘却 作成: 2006-04-09
更新: 2006-04-09


    日本の大学はいま,<再編ゲーム>の中に思考停止して,良識 (合理精神) を失っている。 すなわち,「再編」の自己目的化に陥って,ものごとの本末をきちんと考えることをしていない。

      大学の経営的危機は,基盤の弱い私学では現実のものになっていて,経営の見直しを迫られている。
      国立大学法人 (旧国立大学) は,上(文科省) からの「再編」課題にあおられ,「大学評価」に対する体裁づくりであたふたしている。
      残りの大学も,このような雰囲気にあおられて,「やはり<再編ゲーム>に参画しなければ」の精神状態に陥っている。

    <再編ゲーム>で起こっていることの一つに,大学のレジャーランド化がある。 ──これに奔走する側のアタマの中は,「大学の集客力を高める」だ:
集客力を高めるために,大学をレジャーランドに!

    読売新聞北海道版で「大学の挑戦」シリーズをやっている。「変わる大学・変わる授業」がキー・ワードだ。 しかし彼らの目に「大学の挑戦」と映っているものは,おおよそ大学のレジャーランド化に他ならない。

    わたしの視点では,そこで持ち上げられている「大学の挑戦」は,比喩的に言えば大学の「理数離れ」に他ならない。 いま大学は,「理数科」を離れて「総合的な学習」に向かう。 そのココロは,

      この方が集客力があり,
      授業での学生の受けもよく,
      そしてもっとも肝心なことだが,これこそ「実用の学」の実行である。


    「大学の挑戦」の言い回しが出てくるのは,
    従来大学 = 虚学の府
    の意識が,マスコミや (おそらく) 社会一般にもたれているからだ。現に,これを否定する浅薄な教育風潮が幅をきかすようになっている。

    誤解を怖れずに言えば,大学の意義は「虚学」をしっかり担当するところにある。大学には,ハロー・ワークのようなところに手を出すより先に,責務 (本来の守備領域) としてやらねばならない重要なことがある。 ──このことが,大学人個々においてきちんと押さえられている必要がある。

      「総合的な学習」の教育風潮の中で,「円周率は3でよい」の時期があった。 いま,円周率は 3.14 に戻されることになった。
      はやりに惑わされない


    注意 : 「ファカルティ・デベロップメント」と「大学のレジャーランド化」を混同しないこと。
    大学教員の授業能力 (成績評価に対する潔癖性を含め) は,たしかに褒められたものではない。大学が「虚学の府」としてきちんと立つために,「ファカルティ・デベロップメント」は重要な課題である。(授業は変わらねばならない!)