Up | 浅井学園理事長経費私的流用事件 (独裁と沈黙) | 作成: 2006-03-04 更新: 2006-03-04 |
「暴君・独裁者」は,企業に必ずついてまわる話。 このメカニズムを押さえておかないと,国立大学法人といえども浅井学園のようになる。 ──これが誇張でないことは,以下の論を読み進んでもらえば,わかる。 暴君は,暴君タイプの人間が「善良な」職員の上に立つことで起こるのではない。 暴君は醸成される。生真面目な使命感 (根拠のないエリート意識) と若干の能力をもつ人間ならば,だれでも暴君になり得る。 先ず,暴君の行動の意味について押さえておこう。 暴君の行動は,加虐行動である。 暴君は,自分に従順な周囲につねに苛立っている。そして,いじめをする。 いじめで苛立ちを解消するとともに,このいじめに従順な相手にさらに苛立ちを覚える。
暴君は,歪んだジレンマに身を置く。反抗する者は,敵対者として粛正の対象。一方,自分に従順な者 (沈黙する者) は,愚鈍な生き物として,加虐の対象になる。暴君が自分に従順な者に対して抱く感情は,「信頼」とか「かわいい」ではない。「嫌悪」である。 さて,このような暴君は,どのようなプロセスから生まれるのか。 場面になるのは,どちらが権力 (支配権) をとるかという,2つの陣営間の対立。 ここに,生真面目な使命感 (根拠のないエリート意識) と若干の能力を資質とする者が一方の陣営の上に立ち (立たされ),他方の陣営を,粛正という形で,負かしにかかる。 この闘いはきついものになるので,陣営固めが強力に進められる。陣営の中で揺らいでは闘いに負けるので,きちんと上を支える組織がつくられる。 この組織化の中で,独特な精神構造が形成される。すなわち,批判精神を抑制し,黙して役割を努めるという精神構造。ときにはスパイ・秘密警察の類も組織されるが,このような陰湿な役回りにも人が自ら入っていけるのは,「批判精神を抑制し,黙して役割を努める」精神構造による。 このプロセスで勝利した陣営は,プロセスの過程で既に独裁体制を築いてしまっている。陣営のリーダーは,黙して自分に従う者たちを配下にもった。リーダーが暴君へと進む条件は,勝利した段階で既に得られている。残る条件充足は,黙従する部下に苛立ち始めること。 スターリン国家は,これの典型的な例。 堤の西武王国や浅井理事長の浅井学園も,これと同種。(最初からワン・マンのようだが,相手を自分に恭順させる熾烈な闘いがワン・マンに至るまでにはある。) ただし,ここで述べたようなプロセスでリーダーになった者も,必ずしも暴君・独裁に進むわけではない。暴君・独裁に進みやすい資質がある。それは,根拠のないエリート意識 (独善) ──「自分を相対化できない」資質。 この資質は,デモクラシーが最も警戒するものであり,そこで「デモクラシーと教育」という立論が自然に起こることになる。 デモクラシーはエリート意識 (独善) を退けるために,「個の多様性」「科学的探求」をこれに対置する。エリート意識 (独善) を,中途半端な思考停止の一類型として退けるということだ。 さて,暴君・独裁体制は,沈黙がこれを支える。 暴君・独裁と沈黙は悪循環し,恐怖体制が形成される。 沈黙の端緒は,黙認──気遣い・気後れの沈黙,諦めの沈黙,関わり合いからのエスケープ。 つぎに,対立する陣営間の闘いの中での,「批判精神を抑制し,黙して役割を努める」兵隊行動の定着。併せて,エスケープの増加。 こうして,勝利した陣営は,勝利した段階で既に「リーダーと黙従する配下」の体制を形成している。 ここで重要な要素になっているのは,つぎのメカニズム:
なんでもないような小さな渦の目が,周りの水を呼び,自分が自分を成長させる形で,ついに巨大な渦になるというイメージ。 1970年台に,数学の「カタストロフィー」理論というのがブームになった。フランスの数学者ルネ・トムが発表した理論だが,「カタストロフィーへの臨界点」を主題化したもの。この「カタストロフィー」のことばを借りて言えば,
カタストロフィーの中に入り,恐怖体制を一気に現す。 したがって,体制の変革期にあって陣営間の対立が騒がしくなる状況で最も警戒しなければならないものは,個人の沈黙である。 沈黙 (気遣い・気後れの沈黙,諦めの沈黙,関わり合いからのエスケープ) の先にあるものは恐怖体制なのだが,ひとの目にはこの2つを結びつけることは迂遠に見え,まともな話しとして受け取る向きは少ない。「悪循環」とか「カタストロフィー」とかは,人の想念し難い形式なのだ。よって,たかをくくって寝て,あるとき恐怖体制の中にいる自分を見出す。
歴史に目を向け論理的に思考するという方法をもたない者には,この「沈黙のカタストロフィー」論は空論としか見えないだろう。 浅井学園の理事長の一件は,よその国の特殊な話ではない。「沈黙の構造が臨界点を越えカタストロフィーに入る」という形で,どこにでも起こり得る話だ。 実際,北海道教育大学の執行部は,エリート (前衛) 意識の強い者が集まっていて,「(他のだれかがやっては拙いかも知れないが) 自分がやる分にはよい」という思考パターンで物事を進める。よって,組織の中の沈黙はひじょうに危険なのだ。 そしてまさにこの意味で,いまの岩見沢校/北海道教育大学はあぶない状況にある。──<沈黙>はすべてのタイプにおいて揃っている: 黙認 (気遣い・気後れの沈黙,諦めの沈黙,関わり合いからのエスケープ) そして兵隊の沈黙
役職を自分たちの意のままに用いるというのは,独裁体質がもっとも顕著に現れるところである。 直近では,「理事長補佐」という役職を自前でつくり出すということがやられたらしい。人件費新規計上は組織の大きな問題であるのに,それに見合う説明・議論 (の開示) は一切ない (届いていない)。 執行部側は,こういうことを繰り返し,黙認という行動様式に組織を慣らしていく。これへの対決は,面倒くさがらず,そして気後れせずに,チェックを続けるということだ。 結論 : 「相手の気に入る」「相手の癇癪から免れる」ための沈黙は,<沈黙と独裁の悪循環>のカタストロフィーに進み,恐怖体制を迎える。 恐怖体制の企業は,特殊ケースではない。そして,北海道教育大学は,恐怖体制の企業の素地をしっかり有している。 大学人の責任において,沈黙してはならない。 |