Up 要 旨 作成: 2006-08-25
更新: 2006-08-25


    国立大学の法人化は,国立大学に財政的自立の部分の割合を高めさせようとする政策である。 そして,これに向かわせるための手法の中心は,緊縮財政。

      註 : 「割合を高めさせようとする」の言い回しの意味は,財政的自立を完全実現させることではないということ。──実際,実現されたときには大学でなくなっている!


    緊縮財政を課された大学は,金策を考える。
    金策は,大学の資源の再配置になるので,これまで行ってきている研究・教育とのトレード・オフの問題になる。
    そしてこのトレード・オフをきちんと問題として立てられない執行部を擁する大学では,研究・教育の軽視が起こる。 特に,課程/授業の破壊が起こる。

    課程/授業の破壊は,これを合理化する大学教育論と結託する形で,進められる。
    そのような大学教育論があるのか?と思うかも知れないが,「コア・カリキュラム」や「開かれた大学」論がこれであり,実際それは (「改革」のことばで) 従来型の課程/授業を壊すものになる。

    「中期計画・中期目標」は「大学改革」の趣で作成されるが,そこに書かれる項目がなぜ「大学改革」なのかというと,その項目を合理化する大学教育論において「大学改革」だからである。

    教育の本質論や歴史にいささかでもたしなみをもつ者は,世代交替が大学の存在意義・理由の<忘却>としてはたらき,そして「改革」の大学論がまた蒸し返されることを,よく知っている。この「改革」の大学論の賞味期間もよく知っているし,後始末/尻拭いがこの先に待っていることも知っている。

    法人化における研究・教育破壊は,それを「改革」と考える者によって「改革」として進められるので,やっかいなのだ。 評価委員会/文科省はこれの頭目であるし,各大学では研究・教育を (深いところでは) 知らない事務が「改革」事業と信じて黙々と仕事する。


    ここまで述べてくると,肝心なものが抜け落ちていること,そしてそれが何であるかが,読者にもうすうすわかってきただろう。 そう,大学論が端から無いのだ。 実際,文科省が示してきた改革マニュアルにある「大学」を,みなが「大学」のあるべき形として受け入れてしまった。

    大学人にも,ここで述べてきた構図をよく承知している者,あるいは本能的に「おかしい」と思っている者は,多い。 しかし,それを「声」にしようとしない。 したがって,みなが受け入れたことになる。
    文科省も,自分の方針を国立大学がこぞって受け入れてきたので,「大学の改革」の旗手であることに自信満々というわけだ。