Up 「悪貨良貨駆逐」の構造 作成: 2006-01-18
更新: 2006-01-18


    「教育の改革」は,
      個別の問題を全員共通の問題のようにとらえ,
      これの解決を規約化する
    という形で進められるとき,<中途半端に良くて悪くて>へ強制的に向かわせるものになる。本来良いこと・正しいことに規制がかかり,実質において,教育は損なわれる。

    「問題を本質的にとらえる」「教育改革を実質的に考える」を,アタリマエ (誰にでもできること) と考えてはならない。現実に起こっていることは,「教育の改革」が「誰にでもできる」ことではないことを示している。
    実際,「問題を本質的にとらえる」「教育改革を実質的に考える」は,経験値の高さと解析·推理の力を要する。

      経験値が深く関わることを示す例:
        「学生の不利益」の問題化の仕方は,教員と事務員とでは決定的に異なる。これは,教員と事務員それぞれの学生に対する関わり方が決定的に異なるため。

    「個別の問題を全員共通の問題のようにとらえ,これの解決を規約化する → <中途半端に良くて悪くて>へ強制的に向かわせる → 本来良いこと・正しいことに規制がかかる」の例を示そう。


    先ずは,わかりやすさのために,簡単な例から:

      「ある一部の学生が夜間に学校で騒ぎを起こした。これに対し,学生委員会が,学生の夜間の学校使用の制限強化を規約化しようとした。」
      これは,一部の学生のやった<悪いこと>を学生一般の原罪のようにとらえ,これを抑えるために,学生に対し夜間の学校使用の制限強化を措置しようとした,ということだ──「一部」を「全体」に転じる発想。
      この規約化がもたらすものは,「学問の不夜城」という大学の良き伝統の終焉。

    「一部」を「全体」に転じる発想は,一部を「一部」としてとどめそこで厳格に措置する (一部の者の問題を全員がひとしくかぶるということはしない) という発想と対立する。──現前の<一部の者の問題>をそれ自体で合理的に解決するのではなく,今後この形の罪が起こる余地を潰すということを行うわけだ (この結果は, <全体の不自由>)。


    この押さえをしたところで,つぎの例に移る:
「学生の学修及び成績評価等に関するルール」
(2005-12-22 教育研究評議会資料3)
    この場合の「一部」は,個々に多様な授業・成績評価。


    「学生の学修及び成績評価等に関するルール」の文言には,全般に,「学生の不利益」の主調が色濃く流れる。

    ところで,教員養成課程では,成績評価に関する教員と学生間の対立は,本質的である

      基本的に,教員は,「このような学力で将来教壇に立つようなことがあったら,それは社会悪」という認識で教員養成の授業にあたる。
      一方学生には,「授業に出席していたら,成績はともかく,単位はもらえる」という思い込みがある。──学校の風土がこの学生気質を醸成している。実際,「このような学力で将来教壇に立つようなことがあったら,それは社会悪」が直接的な科目と,関係が迂遠な科目があって,後者は気前よく「温情」評価を施す。
      こうして,学生は,成績評価の (ダブルスタンダードならぬ) 複数スタンダードに対応していくことになる。

      このような学力で将来教壇に立つようなことがあったら,それは社会悪」の認識に立つ授業は,形式的/規則的なものではあり得ない:
      • 「授業に出席しているのに試験の点数が悪い」は,「能力/適性的に,救いようがない」の意味になる。
      • 授業よりホームワークの方が作業的に重くなる場合は,授業時間や時数を形式的/規則的に措置できない。
      • 教員免許に定める単位数も,意味はない。ごく基本的なことを知っていない・わかっていない学生にも,関門となる科目以外では,単位が揃ってしまう。──この場合は,関門となる科目が教員と学生の攻防の場になる。
      一方,学生にとっては,形式的/規則的でない授業運営はとらえどころがない。「ユニットを積み重ねる具合にクリアにしてくれ」という思いをもつ。


    授業の<実質>は,形式/規則とはまったく無関係。実質と形式/規則の次元の違いを理解していないで成績評価の規約をつくるならば,「悪貨良貨駆逐」が起こる。

    「学生の学修及び成績評価等に関するルール」は,基調として,「マス・プロダクションとトラブル回避」の授業/コース運営を実現しようとするもの。「マス・プロダクションとトラブル回避」の内容は,授業・成績評価 (これは個々に多様) の形式化,平均化,オートメーション化。そしてこれが「悪貨良貨駆逐」をひき起こす。
    「マス・プロダクションとトラブル回避」は大学の教育の姿ではないが,今後これが独り歩きしようとしている。

    形式化/平均化/オートメーション化の授業/コース運営にお墨付きを与える類のルールが「悪貨良貨駆逐」を招くメカニズムを,確認しておこう。

    学生は,ルールを自分に最も都合のよい意味で読む。この読み方と合わない授業には,「不利益」のクレームを立てる。また,自分に都合のよい形でやってくれる授業 (A) とそうでない授業 (B) がある場合,A を理由に,B を不当であるとして「不利益」のクレームを立てる。
    クレームを立てるときは,事務を窓口に使う。事務はこれを「学生の不利益」の申し立てとして受け取る。こうして,授業・評価方法の違いが,「学生の利益・不利益」の問題にされてしまう。
    「学生の利益・不利益」の問題で学生 (ある場合にはさらに事務や同僚) と争うのは,教員にとってけっこうめんどう。「周りと適当に合わせよう」になる。
    こうして,成績評価の厳格な授業や,実質をとるために意図して形式を崩している授業が,「学生不利益の授業」として駆逐されていく。


    「学生の学修及び成績評価等に関するルール」の「III. 成績評価基準の整備」から,「悪貨良貨駆逐」の種を2つ取り上げる。

    その1──出欠席の取り扱い

      (1) 出欠席の取り扱いについて
      1. 「出席すべき時数の5分の4以上の出席を要す」という取り扱いを廃止し,学則が定める単位規定を遵守する。
      2. 演習·実習·実験·実技等の体験型の授業では必ず出欠席の状況を評価方法のひとつに加える。
      3. その他の授業では,出欠席の扱い,および欠席理由に応じた欠席の扱い,欠席を補う課題の提出,出欠席の状況を評価方法に加えるか否かは,従来通り授業担当者に委ねる。
      4. 出欠席の扱い等はシラバスに明記する。

    ここでは「出欠席」の意味の誤認 (あるいは意図的な曲解) がある。
    「出欠席」は,正しくはつぎのように位置づく:
    特に,出欠席は評点の要素になるものではない。しかし,2 の記述は,読む者に,「出欠席は評点の要素になる」という受け取り方をさせるだろう。

    1 はどうか。「出席すべき時数の5分の4以上の出席を要す」を不都合とする一部の者が,この規定を無しにしたいと思う──これが,1 のきっかけだろう。しかし,全体がこれに付き合わねばならなくなった。付き合う内容は,「出欠席は (受験要件としてではなく) 評点の要素として使う」だ。
    こうして,今後北海道教育大学では,出欠席を正しく用いる (すなわち,受験要件として用いる) 教員は,規約違反者として罰せられることになる。「悪貨良貨駆逐」である。

    3 は,授業者の裁量を保証する。しかし,学生は「出欠席の扱いが,授業者 A では授業者B と異なる」を「学生不利益」の問題に替える。──先に述べた「悪貨良貨駆逐」のメカニズムが動き出す。


    その2──再試験

      注2) 試験は,定期試験,追試験,臨時試験,再試験により行う。
      1. 再試験  試験の結果,不合格となった科目で再試験を認められた者について行う試験
        新たに制度化 (I. (2) (注1) 参照)

    ここで「参照」先の文言は:

      (注) 従来の「保留」に代わる処置として,新たに「F*」と「I」の評価を加えた。
      1. 「F*」は次の場合の評価をいう。
         試験の結果,今一歩学修が及ばず不合格になった科目について,再試験を認める場合の評価。‥‥

    「F*」の規定には,まるで論理がない。この規定を教員がどのように使いたいのか,学生からどのように使われるのかが,目に見えている。
    学生は「再試験の有無」を「学生不利益」の問題に替える。定期試験をそれの正しい意味において用いる教員は,学生に不利益を与える者と見なされるようになる。「悪貨良貨駆逐」である。


    「厳格な成績評価」の本質は,教員と学生の双方における,成績評価に対する潔癖性。このモラルの問題にメスを入れない「厳格な成績評価」は,お体裁に過ぎない。
    しかし北海道教育大学の場合は,メスを入れるどころか,逆に,
      「出席していたら不合格にしない」
      「試験で点数がとれなかったときは再度試験をやってあげる」
      「定期試験だと落ちる者が出てくるので,試験の他に加点機会をいろいろ増やし,なんとか合格にもっていく」
    を規約化して,自ら進んで従来型「トコロテン」進級にお墨付きを与える。