Up | 国立大学法人における「戦略」のことば | 作成: 2006-04-23 更新: 2006-04-23 |
ただし,国立大学法人で「戦略」のことばが使われる場合,それはひじょうに軽薄な趣になる。実際,自分の思考停止を隠すために「戦略」のことばを使っているのではないかと疑われてくる。そしてこれには,構造的な理由もある。 民間企業の「戦略」は,「巧く立ち回る」に通じる。巧く立ち回れたかどうかは,最終的に企業収益で計られる。 一方,国立大学は,その設立趣旨からいって,自分自身で金を生むことは期待されていない。「国立大学」の「国立」の所以は,「金は国が面倒をみる」ということだ。 国に対する国立大学のようなものが,企業にもある。それは,研究開発部。研究開発部門は,自分自身で金を生まない。失敗や大金を食ってしまうことも,仕事のうち。そして,研究開発に「戦略」ということばはなじまない。研究開発に「戦略」(「巧く立ち回る」) など立たないからだ。 研究開発部に自己採算制を導入する企業は,ない。そんなことをすれば研究開発部はつぶれ,企業全体の損失になるだけ。 全く同じ構造で,国立大学に自己採算制を導入するのは,ナンセンス。それをしたら,国立大学はつぶれ,国の損失になる。 「国立大学の民間企業化」として発想された「国立大学の法人化」は,誤りである。ただし,その誤りを本質的に表現した言説にわたし自身は出会ったことがない。そこで,その表現をここで示すとしよう。それは,「カテゴリー・ミステイク」だ。──国と国立大学との間の論理的なカテゴリー関係を捉え損なっているのが,「国立大学の法人化」。 行政には,国立大学が仕事をしていないように見えた。ぬるま湯につかり,怠けているように見えた。民間企業の社員のような生活·行動パターンでないのが,怠けに見えてしまう。成果が短期で出て来ないのも,怠けに見える。 このように怠けに見てしまうことが既に,カテゴリー・ミステイク。そして,「怠け退治」として,「研究開発部を営業部に変える」施策に進む。
不思議なことだが (それとも,「もっともなことだが」と言うべきか),国立大学の法人化では,国立大学の存在理由だとか,国立大学と民間企業の構造的違いだとかを<科学>の趣で論考するという運動 (ムーブメント) が起こらなかった。類型的な政治的言説のみが目立った。国立大学の法人化において,大学人は「大学人」の肝心な仕事──自分の専門の知力 (研究力・探求力) を使って「国立大学の法人化」を正確に捉える作業──をさぼったのだ。 このことは,「大学における軽薄の横行・蔓延」という報いになって自分に返ってきた。実際,かつての反対勢力も,いまは大学の「戦略」のことばを弄する側にすんなり回る。
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