Up | 前衛主義 -対- 自由主義 | 作成: 2006-03-19 更新: 2006-08-26 |
いまこの立場を,哲学的立場として,簡潔に整理して示すことにする。 (「サヨク」) 哲学は,それの実践者が「自分と他の差別化」というスタンスで論をつくるので,全体として混沌・錯綜の見かけを呈する。
ただ,根幹的なところは,シンプルである。見かけの混沌・錯綜に翻弄されないためには,考え方 (立場) の類型を見つけ,根幹的なところを押さえるという作業が,必要になる。 哲学的な各主題に対し,複数の立場が対立する。単純には,主題の数だけ対立し合う立場がある。 しかし,立場の間には<相性>がある。「主題Aに対する立場Sは,主題Bに対する立場Tと相通ずる」ということが,実際的・論理的に起こる。 よって,「世界観」のような広い括りのところで見ると,対立し合う哲学的立場 (類型) の数は一挙に減ってくる。 ここでは「対立し合う哲学的立場」として「前衛主義 -対- 自由主義」を立てる。 前衛主義は,「優秀な者が前衛を形成して,劣った者を指導する」という立場。(このときの「優秀」の基準は,知力とか問題意識などで,場によって違ってくる。) この考え方は,個人の成長体験がこのようだということもあり,ひじょうにわかりやすい。よって,比較的規模の小さい場では,実現しやすい。 このひじょうにわかりやすい「前衛主義」に,「自由主義」は反対する。 自由主義は「自由大好き」のことではない (笑) ──きちんとした一つの世界観である。 それは,「前衛なんか立てられないよ」とする世界観。 これをわかりやすく説明しよう。 つぎの問題に対する解答は?
100人からなる「前衛」を立てることができるか? 答えは「できない」。そして「できない」理由は,「住民1万人を指導する知力を100人がもつことはできない」。 実際,100人が己の知力で「計画経済」を始めたらどうなるだろう,と考えてみるとよい。 では,問題は,1万人と100人の比の問題か?前衛の数が多ければいいのか? 「そうではない──数や比の問題ではない」と答える者は,「自由主義者」ということになる。
この「前衛主義」と相性がいい考え方 (立場) に,結果主義と全体主義がある。 ただし,これは哲学/世界観というよりは,前衛主義の失敗を合理化する形である。 実際,前衛主義は,「全体を指導する知力を持てないものが指導する」になるので,失敗する。 したがって,状況はつねに「非常事態」。 前衛は,指導の立場を保つために,この「非常事態」を合理化しなければならない。 そこで,結果主義,全体主義を唱える。
ちなみに (教養的な話になるが),「結果主義」には,西洋哲学では「功利主義 (utilitarianism)」の系譜がある。 そして,この功利主義の結果主義に対する批判として,カントのもの (道徳論) に言及するのが教養的定石らしい。
この「結果主義」に対立するのは,プロセス主義ではなく「<プロセス=結果>主義」。( 結果主義とプロセス主義) また,「全体主義」に対立するのは「個人主義」。 この「個人主義」は,「自分は自分にとって目的である」の立場と,自由主義の「知は個に分散」「個の多様性」の立場の合わさったものとして考えるといいだろう。 考え方 (立場) の相性ということで,あと一つあげておかねばならないのが,「独裁」と「デモクラシー」──「独裁」は「前衛主義」と,「デモクラシー」は「自由主義」と,それぞれくっつく。(§「スターリン体制」(前衛主義)) 以上出てきた考え方 (立場) を,表にまとめておく:
ちなみに,わたしの専門は数学教育であるが,社会科学系の人が論じればよさそうな「デモクラシー」の話を臆面なくやっている。存外,数学教育は「デモクラシー」の教育なのだ。 数学は形式の学。形式は人の恣意。恣意は多様に現れ (個の多様性),そしてその恣意はプラグマティックに価値づけられる (ある恣意が他から受容/阻却されるかどうかはプラグマティックに決定)。恣意は論理的に整形され (理論化),その中では合理主義が貫徹される。また,個の多様性の解発 (release)・活性化に,数学の発展・進歩の条件 (自由主義/デモクラシー) を見る。 この世界観は,言語学とか法学なんかからも,出てきやすいだろう。 また,「パラダイム・シフト」の概念も,この世界観に立っていることになる。 大雑把に言われる「デモクラシー」は,つぎのセットを指していることになる: この概念セットは,つぎの対立構図を念頭においている:
上の対立構図で最もわかりにくいのが「プラグマティズム」。 プラグマティズムは,非決定論であり,一種の場の理論──「白黒は場によって転じる」の「場」。 すると,偶然や恣意に翻弄されるだけのように思えてくるが,ここで「合理主義」が鍵になる。 上のセットには,実は「合理主義」が内包されている。「合理主義」を第4の概念として立てていないのは,「デモクラシー」も「プラグマティズム」もこれを要素にしているため。 実際,「デモクラシー」の装置である議論は,合理主義に立つ。プラグマティズムにおける「場」も,一つの「理」の現れと見る。プラグマティズムが非決定論であるという意味は,このときの「理」を相対的 (状況依存) に見ているということ。 プラグマティズムの非決定論が合理主義につくものであることは,「アナーキー」と対比するとわかりやすい。プラグマティズムは「善・正」の非決定論だが,場の理論として「その場における善・正」は堅持する。すなわち,「善い」「正しい」は,厳として言う。 自由主義・デモクラシーを従来型に「リベラル・民主主義」と言い直すと,「平等」「福祉」「分配」「国家規模」「共同体」といった主題が追加的に現れてくる。 この類の概念を上の「デモクラシー」のセットに加えていくと,「自由主義・デモクラシー」論の (従来型) 乱立が起こる。 理論の乱立のほとんどの原因は,「差別化」にある。実際,この場合には人の数だけ理論が存在する。 論を著す上では,「差別化」よりも,(1) 主題の構造化と (2) 自分の論がこの構造の中にどのように定位されるかを示すことが,優先されねばならない。 実際,「平等」「福祉」の類の概念は,「場の理論」としてのプラグマティズムのところに回収されるべきものである。
概念一般がそうであるように,「サヨク」は「サヨクとは‥‥である」というように述べられるものではない。それはファジーな体 (てい) において,使えることばになる (すなわち,意味をもつ)。
例えば,「魚」が何かを明らかにしようとして分析をはじめると,つぎからつぎと述べることが増え,論は拡散し,終いに何を書いているのかわからない大部の書になる。「魚」の意味を考察する資料にはなるが,意味を知る用途には使えない。 もう一つ喩え:「時計」の意味は,時計を分解することではわからない。 そこで,「サヨクとは?」の論の方法が,そもそも問題になる。 ここでは,この方法を考える。 「人工知能 (AI)」という研究領域がある。人工知能をコンピュータで実現しようとするとき,概念をどう扱うかという問題が自ずと生じた。概念はファジーだ。これをどう表現するか? アイデアになったのは,キーワード (カテゴリー) の組み合わせで概念を表現しようというもの。
このアプローチはもちろん厳格には成功しない。概念はもともと人為的・プラグマティックなものであって,論理的構築ですくいとろうとしても,指の間からボロボロこぼれ落ちる。ただし,「まあまあ巧くいく」「かなり巧くいく」というレベルは,がんばることによって到達できる。 「サヨクとは?」の論の方法は,これが適当であると考えている。 「サヨク」のキーワードとして,つぎのものがあげられる:
ただし,精緻にすることと「ホント」が得られることは別であり,また精緻にするはわかりにくくするに通じるので,「ほどほど」のバランス感覚が大事。 なお,サヨクな人は「サヨク」と「悪しきサヨク (スターリニズム)」 を区別したいだろうが,わたしはここでは区別する立場をとっていない。すなわち,「悪しきサヨク」は「サヨク」の論理的含意であるとしている。
「結果主義」は「プロセス主義」に対立することを意図する考え方。 「結果主義」「プロセス主義」をチープに表現すれば,つぎのようになる:
「だめだったけど,よくやったよー。偉いよー。」(プロセス主義) 結果主義は企業などでよく使われそうで,プロセス主義は小学校なんかでよく使われそうだ。 ただこの2つを並べられて「どっちを取る?」と言われれば,普通は「どっちかってものじゃないだろう」と答えるだろう。 実際,結果はプロセスと一体。プロセスの「表現」が結果だ。 数学が好例で,数学の行為にプロセスと結果の切れ目はない。数学では「結果を見る」という行為は成り立ちようがない。 「結果主義」は,「氷山」を切り取って鑑賞できる目。 数学の目では,「氷山」と「水面下の巨大な氷塊」が一つになる。 「結果主義・プロセス主義」で問われるべき問いは,
美しいプロセス → 腐った結果 これの成立を認めるのが「結果主義」。 翻って,「結果主義」のアンチとしての「プロセス主義」は,
美しいプロセス → 美しい結果 上の問いにどう答えるか──結果主義的にかプロセス主義的にか──は,<世界>をどのくらいのスパン (奥行き・深さ) で見るかという,その人の資質・体質にかかっている。 ちなみに,秘密主義/密室主義/内々主義/根回し主義は,悪しき結果主義の一つ。 |