Up | 評価委員会/文科省の「評価」知らず | 作成: 2006-08-15 更新: 2006-08-15 |
他のことが対象の場合はどうなるか? ──「企業」の評価は?「家庭」の評価は?「地域」の評価は?「国」の評価は? 評価は,主観を退け客観的でありたい。 何を評価しようとしたら主観に陥るか? 客観的であろうとしたら何を評価すればよいか? このようなことをいろいろ考えて,一般に,つぎの結論に至る: プロセスを評価しない理由は,それが好き嫌い (個の多様性) の問題になるからである。 これをやれば,一つの独善の押しつけになる。 実際,プロセス評価は,特定イデオロギーによる支配になる。 よって,手法・プロセスは,個々の裁量ということにして,評価の対象とはしない。「それぞれの裁量で成果を出せ」ということにして,結果/成果によって個々を評価する。 これは,自由主義のスタンスでもある。翻って,プロセス評価は,前衛主義のイデオロギー(たとえば左翼イデオロギー)と親和性がある。 それから,「いろいろなことに手をつけている」を評価しない理由は,「広く浅く」「人がやっていないことをやる」は能力・実績と無関係にやれるからである。 「大学」の場合,結果/成果を数値化して表す指標は,つぎのようなものになる:
ところが,評価委員会/文科省による「大学評価」は,結果主義のまるで逆。 「中期計画・中期目標」で手法・プロセスを細かく報告させ,それを評価する具合になっている。 大学を赤ん坊扱いしている態であるが,実際,自分の意に添う形に大学を「育てる」というものになっている。 ここが要点なので,強調しておく。 評価委員会/文科省の「大学評価」は,本来の大学評価ではない。態度評価である。 自分がこれはよいと考える態度形成を宿題として出し,返ってきた答案に点数をつけている。
評価委員会/文科省は,自由主義社会の「大学評価」をわかっていない。 あるいは,外を見ない態で自分の仕事にはまってしまい,アタマがおかしくなっているように見える。
本日は 8/15 なので,アタマのよい人を含めて日本国民が一つになりペイしない戦争に突入した歴史的事実を,他山の石としよう。 ──で,そんな時期にも,「ペイしない戦争」であることをあちこちに訴えることのできる立場の者で,実際にそれをした者はいたらしい。そのような声が優勢になったら「ペイしない戦争」は防げた──「ペイしない戦争」をするもしないも,<声の優勢>の問題。 ということで,評価委員会/文科省に対しこれを「権力」視して棚に上げる (そして自分の不関接を合理化する) ようなやり方 (サヨク的な棚上げ) は,いけない。 評価委員会/文科省も,妙な立場に自ら入り込んでしまったことに気づき,そろそろ焦っている頃だ。 彼らに付き合っていたら大学 (しいては国) がひどいことになる。大学人は,立場は彼らと対等であるということをしかと認識し,集団的に「アタマがおかしくなっている」いまの状況を,自由主義の立場から,学術論文的に明らかにしていくことをしなければならない。 |