Up | 「全入学時代」のことばに瞞される | 作成: 2006-08-17 更新: 2006-08-17 |
高校訪問は,労働力の振り分けであり,損害とトレードオフしている。 しかし,労働力を実体概念化できない者は,この損害を見ることもできない。 そもそも,「高校訪問」の位置づけ・意味づけが,できていない。 つぎの乗りで,高校訪問をプログラムしている:
先輩である私学のやっている高校訪問を,自分もしなければならない。」 ちなみに,これに対するまっとうな思考プロセスは,つぎのもの:
「全入学」は,すべての大学に一律に/平均して起こるのではない。 あるタイプの大学が,「志願者数が入学定員を下回る」となる。 そこで,「それはどんなタイプの大学か?」と考える。 そして,自分と見較べる。この比較作業で自分の特徴付けを固め,「高校訪問」に対する自分のスタンスを決める。 大学として情けないことに,これができないようだ。思考停止の様で高校訪問を始める。 ただし,情けない図になるのは,高校訪問を「全入学を展望した高校訪問」としているためでもある。 ──実際,「高校訪問」についてはつぎのような別の見方も,可能性としては立つ: さて,「志願者数が入学定員を下回る」大学は,どのような大学か? 端的に,実績のない/社会的評価の芳しくない大学である。 ある国立大学が「志願者数が入学定員を下回る」大学になるということは,それが実績のない/社会的評価の芳しくない大学になっているということを意味する。 実績がある/社会的評価が高いは,国立大学にとっては存在要件である。 ある国立大学が「志願者数が入学定員を下回る」大学になるということは,それ以前に,国立大学として失格であることを意味する。 よって,論理の上からつぎのことが出てくる:
即ち,国立大学は,実績を上げ,社会的評価を高めることに専念する。 この結果が「志願者数が入学定員を下回る」であるときは,その大学は廃止でなければならない。 ──これが本当の「大学評価」である。 よって,「高校訪問」するというのは,国立大学として「ズル」である。やってはならないことであり,周りもこれを許してはならない。 |