Up | 金策のために大学の大計を捨てる | 作成: 2006-08-17 更新: 2006-08-17 |
緊縮財政を課された大学は,金策を考える。 金策は,人を含む大学資源の再配置を意味する。 大学資源の再配置は,これまで行ってきたことがそのままの形では続けられないこと,一般に,損なわれること,を含意する。 こういうわけで,金策は,つねに損害とのトレードオフで考えられることになる。 金策は,それがもたらす損害と比較してペイしないとなれば,捨てられる。 しかし,人はこの計算を能くするほどに賢くない。 しばしば,目先の小銭収入がすごく重要なものに思えて,大学にとってほんとうに重要なもの(それはたいてい見えない)を捨てる。 国立大学が「国立」である意味は,
それができる条件整備を国が行う。 大学が本分に付くための必要経費に比べて,大学が本分を崩す形で金策して得る小銭など,たいした額ではない。 国も大学も,このトレードオフをしっかり計算できねばならないのだが,いまはどちらもアタマがおかしくなっている。 国や大学に対して「アタマがおかしくなっている」という言い方をすると,たいていの人は「まさか」と思うだろう。 しかし,組織というのは簡単にアタマがおかしくなる。古今東西例に事欠かない。組織とはそういうものなのだ。 よって,組織の中の出来事には,構成員が事細かくリアクションしていく必要がある。これがデモクラシーの知見だ。 ちなみに,「デモクラシー」を「民主主義」と訳すから,これの意味がわからなくなる。 「民主主義」の訳は「権力」を想定している。権力を生まない/権力に暴走させない装置として「デモクラシー」を見るわけだ。 しかし,ほんとうに暴走しているのは,組織の愚である。
そこで,この組織の愚をチェックするのに,絶えず「デモクラシー」を働かせている必要があるというわけだ。 アタマがおかしくなる者とおかしくならない者がいるのではない。みんなおかしくなり得るから,普段から互いにチェックし合おうということだ。そして,幸い個は多様であるので,議論を始めれば自ずと異なる論が揃う。 以上が,デモクラシーの本義。──ただし厳密には,自由主義 (「個の多様性」主義) に基づくデモクラシーの本義。 |