原則論 (スジ論) は,捨てられやすい。
これには,およそ2つの理由がある。
一つは,原則論がそもそも行うのに困難なものであるということ。
そしてもう一つは,現前の原則はそれぞれ固有の歴史を伴っていて,この歴史を知らない/知ろうとしない者にとってはそれの意義がわからないということ。
- 原則論は,行うことが難しい
原則論は,高い視点が必要になる。低い視点で物事に直接反応するような行動様態から脱けることで,はじめて可能になる。
──したがって,「低い視点で物事に直接反応するような行動様態」が善しとされる場では,疎まれるものになる。
原則論は,高い視点から「見えないものを見る」ことをする。<見えないもの>とは,形/構造である。
「見えないものを見る」わけだから,難しく,実際いろいろしくじりをする。
- 現前の原則には歴史があり,この歴史を知らない/知ろうとしない者には理解不能
ひとは自分の失敗を反省し,これを繰り返さないために,ルールを定める。
それから時間が経ち,世代が替わっていくと,ルールを定めた理由──すなわち,ルールの意義──がわからなくなる。そこで,そのルールの軽視が起こる。簡単に捨てられたりもする。
失敗の歴史が繰り返されるのは,失敗が世代替わりで忘却されるためである。
ちなみに,「個の多様性」を立場とする自由主義/デモクラシーは,独善や前衛主義が組織や国を破壊に導いてしまった失敗を繰り返さないためのルールの体系みたいなものだ。ルール一つ一つにきちんと意味がある。
例えば,デモクラシーの基本中の基本である「任期」の規定などは,執行部にはじゃまでしようがないようなものであり,インチキして実質継続をはかったりするが,「まさにこのような居座りが組織や国を破壊に導いていくものであり,したがって許してはならないものである」というのがこのルールの意味なのである。
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