Up 『報告』に大学が過剰反応:課程破壊 作成: 2008-06-02
更新: 2008-06-02


    「国立大学法人化」の政治的流れの中で,「国立の教員養成系大学学部の在り方に関する懇談会」が 2000年に組織され,翌年11月に『今後の国立の教員養成系大学学部の在り方について (報告)』(以下,『報告』) が出された。
    以降,『報告』は,「法人化」を進める国立の教員養成系大学・学部において,「再編指導書」のように位置づけられるものとなる。

    「法人化」における教員養成課程の再編では,<反-教科専門>が「改革」の考え方とされ,これが課程再編をリードすることになる。
    なぜこのようになったかについては,偶然の要素もあるが,つぎのことが理由として挙げられる:
    1. 『報告』が,「従来型否定の改革を起こすべし」と読まれる。
    2. 教育シーンでは,周期的に,<反-教科専門>が「進歩的」な考え方として現れる。 この「進歩的」が,教員養成課程の再編において「改革」の内容にあたるものと受け取られた。

    本当のところ,『報告』は<反-教科専門>ではない。
    実際,教員養成課程における教科専門の位置と状況を,つぎのように押さえている:

    ( II 今後の教員養成学部の果たすべき役割 : (2) 教員養成カリキュラムの在り方 : 1 体系的な教員養成カリキュラムの編成の必要性)
    教員養成学部は、全教科を担任する小学校教員と10教科にわたる中学校教員を養成していることから、それに必要な各教科の専門科目、教科教育法(学)及び教職の専門科目が開講されており、他学部に比べ幅広い専門分野で構成されている。
    他方、教員養成の在り方として、教員養成学部内においても従来からいわゆる「アカデミシャンズ(学問が十分にできることが優れた教員の第一条件と考える人達)」と「エデュケーショニスト(教員としての特別な知識・技能を備えることこそが優れた教員の第一条件と考える人達)」との対立があり、それぞれの教科専門の教育指導の基本方針が、分野によりあるいは教員により違うという傾向がある。
    特に、小学校教員養成において、わずか数単位である小学校の教科専門科目にどのような内容を盛り込むべきかという教員養成学部独特の課題についても、共通認識が薄かった面がある。そのことが、教員養成カリキュラムの共通の目的性に欠け、ややもすると学生に対する教育が教員個々人の裁量に委ねられているのではないかとの批判につながっている。
    将来教員になるべき学生に、幅広くいろいろな専門分野を体系的に教育するとともに、教員としての実践的な能力を育成していくためには、教員養成学部の教員が、教員養成という目的意識を共有し、体系的なカリキュラムを編成していくことが不可欠である。そのため、学内に教員養成のカリキュラムの在り方を検討するための組織を作っていくことも有効と考えられる。

    ( II 今後の教員養成学部の果たすべき役割 : (5) 教員養成学部の教員の在り方 : 1 教科専門科目担当教員の在り方)
    現在、大学によって多少の差があるが、教員の6〜7割を教科専門科目担当教員が占めており、その多くが理学部や文学部等教員養成学部以外の学部の出身である。これらの教員が、どのような意識で教員養成に取り組むかが教員養成学部の方向付けに大きく影響する。
    教科専門科目の在り方は、前述のとおりであり、それを担当する教員は、その趣旨に沿った教育研究に取り組むことが求められる。教科専門科目担当教員は、他の学部と同じような専門性を志向するのではなく、学校現場で教科を教えるための実力を身に付けさせるためにはどうすべきかという、教員養成独自の目的に沿って教科専門の立場から取り組むことが求められる。それは、教員養成学部固有の教育研究分野である。今後、教科専門科目担当教員には、そのような教員養成学部独自の専門分野の確立に向けて努力することが求められる。


    しかし『報告』の「改革」推進の昂ぶった論調は,この論を自らかき消すようなものになってしまう。
    そして実際,「体系的なカリキュラムの編成」を<反-教科専門>に受け取る大学が出てくる。──教科教育を柱とする課程の破壊という過剰反応に出る。
    ( ひとは「改革」に破壊の過剰反応をする)


     註 : 教科専門科目の問題は,「教科専門科目が専門に偏り過ぎる・専門性が高すぎる」ではなく,「学生が全然わかっていないで受講し,単位をとっている」である。
    ○○を学習したはずの学生は,「○○とは何か?」「なぜ○○か?」の問いに答えられない。 そして,自分が「○○とは何か?」「なぜ○○か?」の問いに答えられない者であることに,自分からは気づかない。──○○が基本中の基本であるほど,こんなぐあいになっている。
    転じて,教科専門科目担当教員の問題は,「○○がわかる」とはどういうことか,「○○を勉強する」とはどうすることかを,彼ら自身よく考えていないことである。