Up 専門数学担当教員の指導力不足の理由 作成: 2009-01-21
更新: 2008-01-21


    指導力は,一つの専門性である。 すなわち,専門陶冶の結果である。
    この専門陶冶を経ていない者が指導をすれば,「指導力不足」になる。

    大学教員は,研究能力において大学教員の職に就いた者である。 指導力陶冶を経て教員になっているわけではない。 よって,指導をすれば「指導力不足」になる。


    指導力不足は,指導経験の蓄積によって改善される。 しかし,それには時間がかかる。 そして紆余曲折する。

    指導力不足は,自分自身を省みるという形では,なかなか改善されない。
    実際,ひとは自分に目を向けることはできない
    指導する者は,その都度,自分の最善をやっている。 そして,自分の最善をやっている者は,自分のやっていることに対しては「まあまあできている」の想いをもつ。 実際,「メチャクチャをやっている」の想いで自分の最善をやるというのは,論理矛楯である。

    自分を見ることができるのは,他の者を鏡にすることによってである
    しかし,「自分の指導力を見るのに,他の者を鏡にする」は,これまでの大学教育の文化ではない。
    ここに,FD (faculty development) が大学の課題になる事情がある。

    ところが,FD を唱えるのもまた,「指導力不足」の教員である。 そして「指導力陶冶」のアマチュアが FD を打ち上げるとき,それはきまってつぎのようになる:
     
  • <制度>の問題にする。
  • <問題意識の高い人 -対- 問題意識の低い人>の問題にする。
  • トップダウン・プロジェクトを起こす。
  • シンポジウムを開き,プロシーディングを出す。
  • 外部講師を招いた研修会を催す,
  • 「大学評価」の中期計画・中期目標の一項目にする。
  • そして,FD はこのような次元の問題ではないので,この取り組みはすぐに萎む──打ち上げ花火/お祭りで終わる。