Up 講義のとらえができていない 作成: 2009-01-22
更新: 2008-01-22


    <わかる・わからない>については,学生はつぎのような姿勢を示す:
     いまわかることが<わかる>であり,
     いまわからないことが<わからない>である。
    すなわち,つぎのような姿勢を示さない:
     <わかる>はカラダのものであり,
     カラダは不自由なものであり,
     <わかる>方法は鍛錬であり,
     そしてこの鍛錬は時間をかけて行うものになる。

    講義という形が,<わかる・わからない>を<いま>のことにする傾向を強化する一つのもとになる。
    授業者は,
      自分が伝えるもの = 相手が受け取るもの
    みたいな授業をする。
      自分が伝えるもののうち相手が受け取ることのできるのは,
      せいぜい 10%
    みたいな授業はしない。

    授業者は,「相手が受け取れるのはどの程度?」の意識をもっていないわけではない。 しかし,これを適切に考えられるようになるには,熟練を要する。
    「指導力不足」の教員は,きちんとした授業をしようとする。 きちんとした授業とは,「自分が伝えるもの=相手が受け取るもの」然とした授業のことである。

    「きちんとした授業」の反対は,「だらしない授業・力の抜けた授業」である。 「だらしない授業・力の抜けた授業」が,名人の境地である。


    文科省が「大学教育の向上」を考えるときは,決まって「科目履修」の発想になる。 目新しい名前の科目を加えようとする,「勉強しない大学生」の問題に対し「必要単位数を増やす」で応じようとする,等々。
    これは根本的に間違った考え方であるが,大学はこれに振り回される。

    行政の文化には,<本質・根本で考える>はない。 行政とはそもそもそういうものであり,行政の欠陥とするのはあたらない。
    <本質・根本で考える>は,行政の役割ではなく,現場の役割である。 現場には,行政に対し<本質・根本>を示していく役割がある。
    文科省が「大学教育の向上」策をおかしな形で言ってきたときは,大学の側の知的劣化を原因として先ず考えねばならない。