Up 経営的意味は「人員削減」 作成: 2008-07-23
更新: 2008-07-23


    合科は,人員削減を可能にし,経費削減を実現する。
    よって,経費削減に一等のプライオリティを措く経営感覚とは,合致する。
    その経営感覚は,「法人化」の国立大学の執行部のものである。
    よって,大学執行部が「合科」に進もうとするのは,自然である。

    「合科」の経営的発想は,企業合併,市町村合併,道州制等の発想と同じである。
    合併は,<重複>をカットできる。
    <重複>のカットが,経費削減の最高策。

      例えば,北海道教育大学札幌校の数学教育講座/専修を「基礎学習コース」の中に解消すれば,現員の代数・幾何・解析各2名は各1名に,あるいはさらに「数学担当」として2名くらいに削減できる。
      実際,札幌校の学部では,専門科目を「免許対応科目」の位置づけにして,免許の基準を満たす最低科目を用意すればよい形,すなわち人員削減を見込める形に,既に「整備」されている。
      この先は人員削減の実行であり,これまでの専門数学担当の教員の場合なら,3ないし2名に削減し,一人に免許対応科目と一般教養的科目等を年間6から8コマ担当してもらうようにする,といった感じのものになる。

    ひじょうに論理的にすっきりしているように見えないか?
    理の当然のように感じないか?


    一般者やマスコミなら「ウィ(Oui)」かも知れないが,大学人であればつぎのような考え方ができなければならない:
      この経営感覚は正しいか?

    経営感覚は,企業の経営的・財政的課題を年度ごとに見る (当座のしのぎを考える) ように形成される。 そこで何が起こっているか・進展しているかを,見なくなる。
    とくに,目に見えないものを見なくなり,「目に見えないもの=無いもの」にする。
    組織を真に成り立たせているものは,目に見えない。 「当座のしのぎ」経営は,この「組織を真に成り立たせているもの」を壊す。

    「組織を真に成り立たせているもの」とは,<いのち>のことである。
    組織体に<いのち>というものはあるのか?
    ある。
    「文化」のように見えるものが,それである。

    百の専門店がある町には,百の専門店がつくる<いのち>がある。
    これが1つの量販店に置き換わる──重複が解消された!
    その町は,これで死ぬ。
    その町は,別の<いのち>をこれから生き始める。
    失った<いのち>は,取り返せない。

    合科は,大学の量販店化である。
    これによって,これまでの大学は死ぬ。
    文化の視点で言えば,明らかに,重厚が軽佻浮薄に置き換わる。

    この社会では,軽佻浮薄が重厚に対して優勢になる。
    これは,どうしてなのか?
    これは,商品経済社会の宿命である。


    商品経済社会は,商品経済をまったく自由にしている社会ではない。 実際,商品経済を自由にすると,社会は壊れる。
    そこで,防御装置がつくられる。
    「国家」(暴力装置) は最大の防御装置である。

    商品経済の自由によって壊されないようにしたいものを,「国立」にする。
    これが「国立大学」の意味である。
    そして「国立大学の法人化」は,この「国立大学」の廃止政策である。

    国や社会の装置の意味は,ひとの目には見えにくい。
    そこで,ひとは自分の立っている足場を自ら壊す愚かをやってしまう。
    このあたりのことは「歴史・経済・社会」のような教科で事例で学習しているはずなのだが,自分のことになるとわからなくなる。