Up | 「改革」の間違いの悪質性 | 作成: 2009-06-12 更新: 2009-06-12 |
教員養成課程の「改革」の執行者は,「コアカリキュラム」だとか「往還型カリキュラム」だとか,「ポートフォリオ」だとか「ステップアップ型チェックリスト」だとか,「改革」の方法をいろいろと定めてくる。 その方法は,教員養成課程には馴染まない。 (構造的な理由があって,馴染まない。──本論考の中でも,この内容について触れていく。) やっていることは,水を掬おうとしてザルをつくっているのと,同じである。 しかし,このときの問題は,「ザルでは水を掬えない」ではない。 ザルを失敗作にしないために,彼らはつぎに,ザルで掬えるものを「水」ということにしていく。 <合理化>の心理が,こうさせる。 これが,このときの問題である。 こうして,「コアカリキュラム」だとか「往還型カリキュラム」だとか,「ポートフォリオ」だとか「ステップアップ型チェックリスト」だとかで掬えるものが,「教員養成課程」ということにされていく。 教員養成課程の意味が,変えられてしまうのである。 よいものへと変えられるのではない。 おかしなものへと変えられる。 「改革」は,失敗と言われないために,対象の<意味>を変えようとする。 「改革」の間違いは「改革」の執行者の<善意>とは裏腹にひどく悪質なものになる,と最初に言った。それはこのような意味からである。 教員養成課程の「改革」の場合は,教員養成課程の意味の変更になる。 「改革」の後の教員養成課程は,教員養成課程ではなくなる。 |