Up | 「法」を強制の理由付けに用いる | 作成: 2009-06-12 更新: 2009-06-12 |
「改革」の執行者は,強制を受け容れさせねばならない。 それには,強制をうまく合理化できることが必要である。 「改革」の執行者にとって,「改革」の強制は,国のお墨付きをもらう形でできるのが最上である。 実際,「改革」路線を進める行政の場合は,「改革」の執行者がやりやすいように,「改革」の強制にお墨付きを与えるための立法をしてやる。 「改革」の執行者は,この種の法の文言を,強制の合理化に使う。 そしてこの場合ありそうなのが,法の文言の無理読みである。 強制を合理化したい心理が,これをさせる。 そして,無理読みが一度通れば,これを常套にしていく。 法は,憲法の下にある。 教育の方法論のことで,強制を許す文言が直接書かれることは,あり得ない。 このような法の文言に,「強制できる」を無理に読むのが,ここでいう「無理読み」である。 例えば,ある大学執行部が,『中期計画・目標』の中に「FD」の一項を入れるために,教員につぎのようなアナウンスを行うといったことは,ありそうなことである:
ここで,第25条の3 の文言から「教員の義務」を引き出すのは,無理矢理である。 「全教員はどれかに必ずエントリーしなければなりません」も,ここからは引き出せない。 端的に,憲法違反である。 実際,多様な個の集合である教員の中からは,「全員がどれかに必ずエントリー」の功罪論を専門的に構築し,その見地から「全員がどれかに必ずエントリー」を退ける者が,必ず出てくる。 そして,その教員の立場は,憲法によって保証される。 また,そもそも国立大学は,「全員がどれかに必ずエントリー」みたいなことをやってはいけないところとして,立っている。 |