Up 疎外論 作成: 2010-06-29
更新: 2010-07-05


    国立大学が国立大学法人になって以来,いちいち,そしてことさらに,無意味・無駄なことをやっているように見えるのは,偶然ではない。 必然である。

    国立大学は,アタマを悪くしたわけでもおかしくしたわけでもない。 アタマを悪く/おかしくして無意味・無駄を行動するようになったのではなく,《アタマと行動を切り分け,そして無意味・無駄を行動する》というようになったのである。
    国立大学は,無駄遣いを自分の生きる形にするものになった。 ひとも,無駄遣いに順応しなければ自分を保てない。 この順応の形が,《アタマと行動を切り分ける》である。

    《アタマと行動を切り分ける》は,古典的な「疎外論」の内容である。
    疎外論は,疎外を「仕事の手段化」に還元する。
    「国立大学の法人化」で進行していることもこれであり,すなわち「教育・研究の手段化」である。

    教育・研究は,<大学に収入をもたらす教育・研究>として自らを現すことが定められる。
    <大学に収入をもたらす教育・研究>として自らを現すことのない教育・研究は,差別されることが定められる。
    教育・研究を<大学に収入をもたらす教育・研究>と同一視する精神が,求められるものになった。

    この精神を定着させる装置が,「業績評価」である。
    「業績評価」の意義は,教育・研究を<大学に収入をもたらす教育・研究>と同一視する精神の定着にある。 アウトプットは,教育・研究が<大学に収入をもたらす教育・研究>と同一視される精神風土である。
    翻って,評価自体は意義ではない。評価が精緻かどうか,意味があるかどうかは,もともとどうでもよいことなのである。(特に,この点で議論しても意味のないものである。)