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『サンカとともに大地に生きる』の奥付から引用
1888年、大阪生まれ。
社会事業家。
京都'帝国大学で河上肇、西田幾多郎に学ぶ。
事業会社創立に参加するが退職、臨済宗天龍寺で禅の修行に入る。
回峰行修行、山中独居の坐禅修行の後、大阪・百軒長屋の貧民窟に入り、さらに蜜柑山で乞食(サンカ)の群れに身を投じる。
乞食狩りを機に、1921年頃、仲間の社会同化を企図し、洗心館を作り、翌年「同朋園Jを立ち上げ、清掃業などを中心とした社会事業の道に入る。
農園事業、開拓事業を経て、晩年は刑務所の教務師となった。
著書に『共に行くもの』がある。
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宮本常一 (1964), pp.62,63
‥‥‥ サンカの群はきわめて多かった。
奈良・大阪地方ではこの仲間をサンカともヒニンともよんでいた。
そしてその数を正しく知ることはできなかったが、おびただしいものであったと見られる。
私が大正の終り大阪にいたころにはまだいくつかの大集落を見かけた。
大阪天王寺駅の西方、現在市民病院のたっているところはもとミカン山といって草地の台上であった。
その台上に莚でかこった小屋の大集落があった。
それがサンカの部落であった。
おなじころ、大阪市の新淀川にかかっている長柄橋の下の川原にも大集落があったし、淀川にかかった都島橋の下にも莚張りの大きな部落があった。
これを目して乞食の村だといっている者もあったが、「あれはサンカだ」と教えてくれた人があった。
私はこの集落につよい興味をおぼえてはいりこんでいろいろ話を聞いてみたいと思って、都島橋の下ではこの仲間といっしょに水泳をしたり、夕暮の一ときを話してみたりしたことはあるが、ついに親しく交わることはなかった。
ただ、昼間はうすぎたなくしている娘たちが、夕方川で水浴して髪をくしけずり、浴衣を着ると見ちがえるように美しくなって、それが橋の上に上って欄干に寄りかかって夕涼みをしているのを見ると、橋下の莚小屋の住民とは思えなかった。
その橋下の仲間は長柄橋の下の仲間やミカン山の仲間ともたえず交渉を持っているとのことであった。
その後、和泉地方に住むようになってからも、村々を歩いていると、川の橋の下や山間の谷間に小屋掛けして生活している仲間をよく見かけ、聞いてみるとやはりサンカであった。
当時、私にはサンカと乞食の区別もつきかねていたが、清水精一氏の「大地に生きる」を読んで、これらのサンカについてくわしく知ることができた。
氏はサンカのなかで久しいあいだ生活し、この人びとの生活向上のためにつとめたのである。
昭和にはいってからミカン山や長柄橋の下のサンカ部落は大阪府警察部の手入れによって解散し、一時兵庫県との境の神崎大橋の下へ移ったと聞いた‥‥‥
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ミカン山からの乞食追い出し (1920年頃) は,大阪市の第2次市域拡張 (13区に) の一環である。
ミカン山には,市民病院が 1925年に開始。
その市民病院は,現在は,大阪公立大学医学部附属病院。
大正14 (1925) 年発行の大阪市街大地圖から
(鉄道の南側が阿倍野で,「山柑密」の地名が見える)
「古地図で愉しむ大阪まち物語」から部分引用」
大阪市の拡張
日本経済新聞「「大大阪」 歩みと挫折 市制130年, 3度の拡張」から部分引用」
- 引用文献
- 宮本常一 (1964) :「サンカの終焉」
- 『山に生きる人びと』(日本民衆史 2), 未來社, 1964. pp.62-67
- 引用/参考ウェブサイト
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