Up クグツとは 作成: 2025-01-18
更新: 2025-01-18


      柳田国男 (1911)
     クグツまたはサンカが山野の竹や草を採り、わずかぽかりの器物を製作してこれを(ひさ)ぐは、かかる大種族の生計の種としてまことに不十分なり。
    大量生産の盛んに行わるる今日となりては、その不足いよいよ甚だしくついに悪事の収入をもって幾分これを補足せんとするに至るも、是非なき次第なり。
    しかしながら遠く古代の状況に溯りて見れば、彼等はこのほかにまだ相応の収入の道を有せしなり。
    その一はすなわち祈禱にして、その二はすなわち売笑の業なり。
    しこうして歌唱と人形舞わしはまたこれに伴える第三の職業なりしなり。
    時勢の変易とともにこれ等の業はすでに分化して一々の専門となり、残余の一半のクグツにして、智巧これに適せざるものは次第に零落してかかる気の毒なる漂泊者となり、その本源のすでに別異なる上、生活程度の差等はいよいよもって平民との間に劃然たる分堺を生ぜしむに至りしかと思わる。

     クグツの生活を明らかにするには『傀儡子記(かいらいしき)」(朝野群載巻三) は最も大事なる史料なり。
    されどあの漢文には文章の趣味に駆られたるらしき部分ありて少しく不安心なり。
    たとえば「定居なく、常の家なし」とか、「一畝の田を耕さず一枝の桑を採らずゆえに県官に属せず皆土民にあらず自ら浪人に限れり」とかいうは写実ならんも、「穹慮氈帳(きゅうろせんちょう)水草を()いてもって移徙(いし)す」とあるがごときは誇張に近く、かの「顕宗紀(けんそうき)」の牛馬満野、または銀銭一文などの記事と同じく漢史の丸取りかも知れず。
    しかし反証なき間はかりにその他の記事をもって(すベ)て真なりとしてこれによるべし。
    この記によれば従来クグツに傀儡師の字を宛てたるはすこぶる穏当ならず
    クグツが「木人を舞わしめ魚竜曼延の戯をなす」は単にその生業の一部たるに止まり、この他になお男子は「弓馬を使い狩猟を事とす」とあり。
    この「馬」なども何分信用しにくし。
    またマジックもその一の職業なりき。
    次の文には『沙石を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣となす」とあり。
    末の方にはまた「夜はすなわち百神を祭る、鼓舞喧嘩もって福助を祈る」とも見ゆ。
    クグツの語義すでに人形舞わしに縁なかりしとすれば、何ゆえに支那の傀儡をもってこれに当てたるかという説明としては、漢字の選定に疎漫なりしというか、しからざれば唐朝以前の支那の傀儡にも移徒の風ありかつ巫術を兼ね行いたりしと見るのほかなく、しかも後者についてはいまだ十分の根拠を見出さず。

     クグツには団体あること、及び定住なきにもかかわらずはなはだ富有なりしことはまた『傀儡子記』に見ゆ。
    曰わく「東国にては美濃・参川・遠江等の党を豪貴となす。
    山陽・播州・山陰・馬州(但馬ならん) 等の党これに次ぎ西海の党を下となす」と。
    しこうして何ゆえにクグツのある者が財に富み豪貴とまで言わるるに至りしかと思うに、とうてい人形舞わしの収入を主とせざりしことは明らかなり。
    すなわち伎芸以外別に身分ある常人より金銭を巻き上ぐる方法としては、やはり近代のジリョウジ、ブリウチの徒と同じく人の迷信を利用せしに相違なし。
    同じ記の文に「女はすなわち愁眉、啼粧、折腰歩、齲歯笑(うししょう) (いずれも唐代美人の媚術(びじゅつ)をなし云々」と形容だくさんに、彼等が色を(ひさ)ぐの風習を述べたり。
    京都の貴婦人は支那などと違い夫に伴いて地方に赴任すること少なかりしゆえ、田舎の生活はいかにも無聊にて良家の子弟はこれを厭い、たまたま使いなどに出づることあれば往々にしてクグツの女の歌舞に耳目を楽しましめたりき。
    いわゆる一曲纏頭(てんとう’)不知数にてこの収入はまたもってクグツを豪貴ならしむるに至りしならん。

     江口・神崎の遊女はこれをクグツと記するものを見ざれども、これもまた漂泊の生活をなせしものなることは次に言わんと欲するところなり。
    その第一には遊女という文字なり。
    娼婦をアソビというは古きことにて、『和名鈔』にも遊女、一に阿曾比というとあり。
    アソビメと『宇津保』などにも見えたれば、人は往々にして遊女の遊は右のアソビのことならんと思えり。
    しかれどもすでに狩谷氏も言われしごとく、アソビの義は音楽を奏することにて、この輩が歌舞の職とせしよりの名称なり。
    遊女の遊はまったくこれと関係なく単に漂泊を意味したりしなり。
    遊女古くは遊行女婦と書せり。
    たとえば『万葉集』六に筑前水域(みずき)の遊行女婦、(あざな)を児島という者あり、同第十八に遊行女婦の字を佐夫流(さぶる)及び土師(はじ)と称するあり、第十九には遊行女婦蒲生(がもう)あり。
    『和名鈔』の遊女の説明に『楊氏漢語抄」を引きて遊行女児、字加礼女とあるごとく、すべて皆ウカレメまたはウカラメと()みしなるべし。
    ウカレは天智紀に浮浪人をウカレビトともあれば、右の遊行はすなわち一定の貫住なく旅行をもって生涯とする意と解して可なるべし。
    その証としては『懐風藻』の釈智蔵(しゃくちぞう)が伝にも負担遊行とあるは、この僧の雲水生活をいうらしくまた『本朝丈粋』の大江以言(おおえのもちとき)が見遊女詩序にも「けだし遊行をもってその名となすはもって名を信にするところ」ともあるなり。
    後世においても遊行上人の遊行はすなわち同じ意味なり。
    また『大和物語』等に見えたる河尻の遊女その名を白と呼ぶ者が、亭子院(ていしいん)の御門に()みて送りし歌に
     「浜千鳥 飛び行く限り ありければ 
        雲居る山を あはとこそ見れ」
    というがごときも、単に「遥かにして遠きよしを歌に仕れ」とありし命を奉ぜしのみならず、自分の漂泊生活をもって千鳥の水上を飛ぶに警え、意の欲するままに東西することを得る身にはあれと、都の貴人の御側には近よりがたきこと、あたかも高峰の雲を見るがごとしと巧みに言い現わせしがゆえにことにその才を感ぜられしなり。

     水上に住むを遊女といい陸路にいるを傀儡というとの説は、おそらくは別に(よりどころ)なき推測ならん。
    江口・神崎の遊女とても常々は陸上におりただその去来のみ船によりしなり。
    しかしこれをもって強いて区別すれば、遊女は西国より来るもの多かりしなるべく、傀儡子はほぼ京以東の物なれば、二種の名称は地方的の相違すなわち方言の差なりというを得るなり。
    クグツの生活は前述『傀儡子記』のほかに『本朝無題詩』の中にこれを詠ぜし詩数篇ありて、その一端を知り得べし。
    たとえば法性寺入道の詩には「傀儡子もと往来頻なり万里の間に居尚新なり」とあり、敦光の詩には「穹盧(きゅうろ)妓を蓄えて各ゝ身を容る山を屏風となし苔を(しとね)となす」とあり。
    あるいは「郊外居を移して定処なし」とも「茅簷(ぼうえん)は是れ山林に近く構え竹戸は屢々水草を追いて移る」ともあり。
    彼等が行人を物色し旅亭を訪問して笑を売りしこともまた顕著に描写せられたり。
    またこれら娼女の晩年いかに成り行きしかは「壮年には華洛の寵光の女 暮歯(ぼし)には蓬蘆(ほうろ)の留守の人」、「(せい)(ほく)す山河幽僻(ゆうへき)の地怨みは深し声貌老来の中」もしくは「それ(いか)にせん穹蘆年の暮れたる後容華変じ去って心を傷ましむ」などとあるにして知られ、「旅亭月冷にしてタに客を尋ね 古杜嵐寒くして(あした)に神に賽す」とあるにて彼等の巫女の業の一端も髣髴せらる。 『遊女考』には王朝時代の名妓の名を多く蒐集す。
    その中には観音、小観音、文殊、御前、孔雀など仏教に(ちな)める名称多し。
    これ一の見所なり。
    遊女が白太夫(しらだゆう)神に(つか)うという『遊女記』の記事は最も注意に値す。
    白太夫は道神または道祖神の一名にして、彼等は「人別にこれを刻期し数は百千に及ぶ よく人心を(うごか)すまた古風のみ」とあれば、おそらくはその光景現今東北の倡家がコンセサマを神棚に安置すると同様なるべく、しかもこの神が『倭名妙』及び『江談抄』にも言えるごとく行旅を保護するいわゆる遊行の神なるを思えば、またもって遊女の生活の陸上のクグツと異なることなかりしを証するに足るべきなり。
    『中右記』元永二年九月三日の条に神崎の遊女 小最 見ゆ。
    これもコサイと訓み小道祖の義なるべし。

     カムナギにはもちろん上下優劣の階級ありて、朝家の御祭などを仕うる者は清浄なる女子なりしならんも、身分低き田舎の巫女に至っては神を祭りし歌曲舞踊を転用してまた庶人の耳目をも悦ばしめたりしかと思わる。
    『新撰字鏡』には、媛、妓、魃三ながら同じ、巧也、冶也、遊也、加年奈支とあり。
    『新猿楽記(さるごうき)』には「四の御許は覡女なり、卜占、神遊、寄絃、口寄の上手なり、舞袖飄颻(ひょうよう)として仙人の遊のごとく、歌声和雅にして頻烏の鳴くがごとし、非調子の琴の音には天神地祇も影向(ようごう)を垂れ、無拍子の鼓の声には口口野干(やかん)必ず耳を傾く、よりて天下の男女(きびす)を継いで来たり遠近の貴賎市をなして(こぞ)る云々」とあり。
    白拍子もその表面の業は仏神の本縁を歌うるにありといい、その白拍子という文字も興福寺の延年舞古譜、春日若宮神楽歌などに見ゆるが始めなりといえば、あるいはまた始めより祭事と遊宴とに両用せらるべき性質の者なりしならんか。

     遊女にも夫ありしことは、たとえば大江以言の詩序に「その夫壻(ふせい)ある者は責むるに淫奔の行少なきことをもってす」とあり。
    近江海津のかねという大力の遊女は法師を夫にしたりと『著聞集』に見ゆ。
    この法師というはいわゆるひじり阿弥陀聖または聖坊主などの類なるべし。
    『今昔物語』等を見ればこの種在家妻帯の聖人多くあり。
    その中には道力の清僧にも優れるが稀にはありたれども、一般にはすこぶる賎しき者として取り扱われたり。
    梶村土佐守の『山城大和見聞随筆』によれば、奈良坂のシュク部落に寛元二年の訴状を蔵せり。
    彼等は自ら非人と称ししかもその名前は近江法師・淡路法師等のごとく皆法師と称すること前号に掲げしイタカの阿波法師などと同様なり。
    この徒も皆妻あり。
    琵琶法師などの法師もまたかくなるべし。
    この問題は枝葉なれば詳述せずといえども、とにかく近代まで箱根その他の修験派の道場においては山伏の女房はすべて比丘尼と称してすなわち巫女なりしなり。
    しこうしてその巫女の最粗末なる者はやはり(しょう)を兼ねたり。
    熊野比丘尼はその最も顕著なる例なり。
    元禄頃の漢学者の随筆『仲子語録(ちゅうしごろく)』に支那の三()六婆を説明して道姑はわが国の熊野比丘尼のごとしといえり、比丘尼とはいいながら普通の女僧にてはあらざりしなり。
    『和訓某』に曰わく熊野比丘尼は紀州那智に住みて山伏を夫とし、諸国を修行せしがいつしか歌曲を業とし拍板を鳴らして歌う。
    これを歌比丘尼といい遊女と伍をなすの徒多く出で来たれり、すべてその歳供を受けて一山富めり云々。
    いかなる材料に基きしかは知らず那智のためには大分不名誉なる記事なり。
    勧進比正尼の事を説くものは『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』でも、『東海道名所記』でも皆この徒が倡を営むは後世に及びての堕落のごとく主張するも、それは決して確かなる証拠ある説にあらず。
    今日の眼より見ればはなはだ兼ねにくき二穫の職業も中世の社会慣習はこれを当然と見しものかと思わる。

    『和訓栞』の編者はまた『庭訓往来(ていきんおうらい)」の中に県神子傾城(あがたみこけいせい)とつづけて書けるに注意し、さらに曰わく信州の諏訪にては普通の巫女のほかに別に一種神家を離れたる県神子ありて娼を兼ねたりと。
    よりて考うるに摂州住吉杜の御田植の神事等のごとく古来遊女の出でて祭礼に奉仕するの例あるは、また右の下級巫女なるべし。
    遊女を太夫と呼ぶは男の舞々を神事舞太夫・設楽(しだら)太夫などというと同じ趣旨に出で、ともに陰陽道の末流に属することを示すものなるべし。
    これについて一の伝説あり。
    竹葉寅一郎氏の調査によれば、伊勢飯南(いいなん)射和(いざわ)村大字庄に二十二戸の特殊部落あり。
    この徒自ら称すらく、その祖先は尾州熱田(あつた)禰宜(ねぎ)なりしが、ある遊女と馴染(なじみ)を重ねたる後、女がこの郡花岡村大字山室の穣多なりしこと現れ、その職にあることあたわず、ついに女に伴ないてこの地に移り来ると。
    伊勢は我々が知れる範囲においてはこの種人民の最も多き地方なり。
    しこうしてまた今日も娼妓の最も多く出る地方なり。
    明治三十九年にはこの県の特殊部落より出でて娼妓となれる者四百五十人あり。
    このほかにこの業に就くとともに本籍を移せるものなお多し。
    この徒においては昔よりこれを出世奉公と称し金に困らぬ者もこの業をなすあり。
    彼等の奉公先は半分は東京なり。
    ある妓楼の主人は娼妓は穣多に限る由を打ち明けたりと聞く。
    この問題は遺憾ながらあまり詳細に討究するあたわずといえども、自分は右の現象をもって偶然のものと考うることあたわず。



  • 引用文献
    • 柳田国男 (1911) :「「イタカ」および「サンカ」 (三)」, 人類学雑誌, 1912
      • 『柳田國男全集 4』, ちくま文庫, 1989.
      • 『サンカ──幻の漂泊民を探して』(シリーズ KAWADE 道の手帳), 河出書房新社, 2005. pp.136-153.